母語を揺さぶる翻訳たるべし

ベンヤミンの翻訳論の紹介です。出典は、「哲学の歴史10−現象学と社会批判」(中央公論新社)。

この本は、書き手によってデコボコが激しいが、ベンヤミンアルチュセールアドルノハーバーマスあたりの解説は有益だった。特にハーバーマス解説の三島憲一氏は、「内輪の文体」ではなく一般読者に届く文体で、とっつきにくいハーバーマスをうまく料理しており感服した。

 以下引用したベンヤミン解説は柿木伸之執筆。

 ベンヤミンは、「翻訳」に言語生成のダイナミズムを取り戻す可能性を見ている。その「翻訳」とは。

 「意訳」は、情報の伝達のみを旨とする「劣悪な翻訳」である。

 翻訳者は、「母語」での理解に解消でき、原作の言葉で「意味される」内容ではなく、原作のそれぞれの言葉が「意味する仕方」、すなわち何かを語ろうとする異様な文字の姿に忠実に翻訳しなければならない。つまり、翻訳は「文字通りであること」(woertlichkeit)が要求されるのである。

 この結果、訳文は、ぎこちなくなるが、ベンヤミンはそれでもかまわないという。意訳を売り物にしている「超訳」などは、もってのほかということになる。

 ベンヤミンにいわせれば、「文字通りの翻訳」によってみずからの「母語」を揺さぶり、それを破綻に追い込んだところでこそ、「純粋言語」、すなわち世界の現実を余すことなく語る純粋な「名」としての言語であることへ向けた言語の生成を再び活性化させることができる。

 翻訳者がほかの言語に応えながら「母語」という「朽ちた柵」を突破する時、その言語はリアリティに応答する力を取り戻しつつあるのである。


 世界に複数の言語があることの豊饒さ。

 そういえば、1年ほど前に、英国ケンブリッジ大学が入試の必修科目から外国語をはずしたことが報じられていた。驚くべきことに、英国の大学で、外国語を除外したのがケンブリッジが最初ではなく、最後である点だ。

 米国人の外国語オンチはすでに定評がある。「国際語」である英語を母語にしていれば、外国語は知らなくてよいというわけだ。ベンヤミンに即して言えば、米英は、「世界のリアリティ」からどんどん離れているということになる。ただ、日本も、外国語が入試に含まれているが外国語オンチではかなりのもんだ。米英を笑えない。