大手拓次の蛇

仮面のいただきをこえて
そのうねうねしたからだをのばしてはふ
みどり色のふとい蛇よ、
その腹には春の情感のうろこが
らんらんと金にもえてゐる。
みどり色の蛇よ、
ねんばりしたその執着を路ばたにうゑな
 がら、
ひとあし ひとあし
春の肌にはひつてゆく。

みどり色の蛇よ、

その歯で咬め、
その舌で刺せ、
その光ある尾で打て、
その腹で紅金の焔を焚け、
春のまるまるした肌へ
永遠を産む毒液をそそぎこめ。



大手拓次「みどり色の蛇」


 昔愛読していた筑摩の「現代詩集」(現代日本文學体系93)をアマゾンで購入した。昭和48年発行の初版だ。パラパラめくると懐かしい詩が並んでいる。大手の作品は覚えていなかったが、篠田一士の解説に引用されていた上記の詩が気に入った。

 大手拓次(1887〜1934)。2400篇の作品を残したが、ライオン歯磨に勤めるサラリーマンで生前に詩集の刊行はなし。しかし、萩原朔太郎は大手の作品から影響を受けたと告白しているという。確かに、イマージュの喚起力に共通点を感じる。

 篠田は解説で、日本の近代詩の起点を、通説のように「新体詩抄」、「若菜集」ではなくて、萩原の「月に吠える」とする。

 
萩原朔太郎こそは、日本語によって、それ(近代詩の詩的言語の創造)をもっとも果敢、そして、もっとも激しい振幅をもって実現した偉大な詩人であった。

 
 かくて、篠田は萩原を「日本のボードレール」と呼ぶ。その萩原に影響を与えたのが大手というわけだ。篠田は、大手の詩業を「新しい日本の詩的言語の石切り場」として、「形の出来、不出来はあるにせよ、どの言語も新しく、そして、本当にひとりの肉身をもった人間の掛け値なしの感受性のかがやきにみちあふれている」と評価する。

 
(萩原が大手の詩業から)なにを奪い、また、奪ったものをどのように消化し、より真正なものに鍛えあげていったかを見きわめることは、今や、緊急課題となりつつある。…日本の近代詩創造の煮えたぎる坩堝のなかに、どのような詩的可能性がありえたか、それを見直し、考えなおすのは、今日の詩の問題だからである。

 篠田がこう書いて、35年が過ぎたが、上記の問題提起は、なお「今日の詩の問題」である。いや、日本近代における取捨選択の再検討は、「今日の日本の急務」でもある。