「吉本隆明1968」(鹿島茂、平凡社新書)を読んでいたら、面白い説明があった。
この箇所は、佐野学と鍋山貞親の転向に関連した記述。佐野と鍋山の二人は天皇制打倒を呼びかけた戦前の日本共産党の最高幹部で、獄中にあった昭和8年、「共同被告同志に告ぐる書」を発表し、天皇制支持への転向を表明した。
まず、この両者の転向に関して吉本はこう論じる。
自己疎外した社会のヴィジョンと自己投入した社会のヴィジョンとの隔たりが、日本におけるほど甚だしさと異質さをもった社会は、ほかにありえない。日本の近代的な転向は、おそらく、この誤差の甚だしさと異質さが、インテリゲンチャの自己意識に与えた錯乱にもとづいているのだ。
「転向論」吉本隆明
これに関連して、鹿島は現代風にうまい実例をあげて説明する。
例としてあげてみたいのは、海外旅行に行って帰ってきた日本人が語る帰国談です。
「いや驚いたね、パリのオルセー美術館に行ったら、もう日本人ばっかり。日本人ってのは本当にオルセーが好きなんだね。至るところで日本語が聞こえてきてうんざりしたよ」
この言葉が「自己疎外した社会のヴィジョン」です。自分自身をオルセー美術館で日本語で話している日本人の中に含めていない(疎外している)のですから。
なるほど。それで。
では「自己投入した社会のヴィジョン」というのは、どういうものでしょうか?
「パリのマクドナルドに入ってビッグマックを注文したら、こっちがフランス語のわからない黄色い顔の日本人だと見たのか、店員のヤツ、やたらに人種差別的な態度とりやがって、もう頭にきた!」
こちらの人は、自分をパリのマクドナルドで注文する客というカテゴリー以前に「日本人」というカテゴリーに入れてしまって議論を進めています。この人の頭には、パリのマックの店員はだれに対しても平等につっけんどんなのかもしれないという仮定が入り込む余地はありません。実際、「日本人だから差別しようと思う」ほど意識的に人種差別を貫く店員などほとんどいないのですが、この人は「自己投入した社会のヴィジョン」でものごとを見ていますから、そうした事実は視野に入らず、日本人であることを過剰に意識してしまうのです。
おそらく、こうしたタイプの人は、マックを出た足で日本食レストランに入り「一杯のかけそば」を口にしたとたん、いきなり涙して「ああ、おれ(私)は日本人なんだ」と自己確認してしまったりすることでしょう。現在の日本に関していうならば、問題は、オルセー美術館には日本人ばっかりだという「自己疎外した社会のヴィジョン」の持ち主が、同時に、パリのマックで人種差別されたと抗議する「自己投入した社会のヴィジョン」の持ち主であり、この二つの心的モードを、状況によって自分に都合がいいように使い分けているにもかかわらず、その心的モードを操作している当人は、モードを使い分けている事さえ気がついていないことにあります。
なるほどね。
鹿島は、昭和前期当時、日本のインテリゲンチャにとって、この二つの心的モードはどちらか一方しか取れない二者択一的なものだったと指摘、「自己疎外」から「自己投入」に移った途端に落差と異質さに耐えきれず「転向」を決意するにいたったと説明している。