「楚辞」の批評性

漢詩の古典「楚辞」所収の「漁父」を読む。

屈原は放逐されて後、江や淵をさまよい
沢のほとりを行きつつ歌っていた
顔色はやつれ、その姿は痩せ衰えていた

漁夫(詩の題は「漁父」となっている)がそれをみて、「高位にある御方がなぜこんなところにおられるのか」と聞いた。

屈原は言った
世間は皆濁っているのに、私ばかりが澄んでいた
人々は皆酔っているのに、私ばかりが醒めていた
だからこそ放逐されたのだ

漁夫は言った
聖人は物事にこだわらず、世間につれて移るという
世の人が皆濁っていれば、なぜ御自分もその泥をかき濁し
その波を揚げようとはされませぬ
衆人が皆酔っていれば、なぜ御自分もその糟をくらい
その糟汁をすすられませぬ

屈原は答えた。

髪を洗ったばかりの者は必ず冠を弾いてかむり
湯浴みしたばかりの者は必ず着物を振って着ると
どうして清らかな身体をして、汚塵をこの身に受けられようか
いっそ湖水の流れに身を投げて魚の餌食になろうとも
どうして潔白なこの身体に世俗の塵を受けられよう

 よくある昔話なら、ここで漁夫が「私が浅はかでした。おはずかしい限りです」と感心し、高い志を捨てないで敢えて清貧に甘んじる、屈原の決意に対し恐れ入ってオシマイとなるところだ。しかし、この詩では、漁夫のオッサンはなぜかにっこりと笑い、こう歌った。

「滄浪の水が澄めば、冠の纓(ひも)が洗えよう
滄浪の水が濁れば、それで足を洗えばよい」

漁父はそのまま行って、もう語らなかった。

詩はこれで終わっている。なかなか意表を突くエンディングだ。「漁父」のテーマが、世俗に屈しない屈原の立派さを称えることなら、こういう終わり方をするだろうか。

「あんたは清潔でシラフのつもりかもしらんが、毎日、サカナ相手に仕事をしている俺からいわせれば、都でなんだか偉そうにしている連中は、聖人面しているあんたも含め、みんなタチの悪い酔っぱらいのようなもんだ。そんな場所にいるんなら、腹をくくって、清濁併せ飲む覚悟がなくちゃだめだね」
 漁夫は本音の声はこういうあたりにある気がする。

 漢詩のなかには、社会的エリートになる資格があると思っていながら結果的になれなかった挫折したエリートの愚痴が目立つ。隠遁といっても、挫折したくやしさを、一生懸命合理化して自分に納得させようとしている作品も多い。
上記の漁夫の態度に、一見反俗を気取る挫折エリートに対する、颯爽とした軽蔑がある。

 出典は忘れたが、昔の禅の坊主の言葉を思い出した。

小隠は山中に逃げ、中隠は町にひそみ、大隠は宮中にあり

 本物の世捨て人は、権力の中枢にいる。含蓄あり。