「バードマン」、映画的アクロバットの妙技

アカデミー賞アメリカ映画」と聞いただけで見る気がなくなるヒネクレモンだが、いくつかの映画評に感じるところがあり、「バードマン」を上映中の劇場に足を運んだ。


この判断は正しかった。メジャーなアメリカ映画にはない、ひねった高レベルの批評性を備えた作品だった。作品について賛否があるとのことだが、「ディズニーランドだと思って入ったのに、変態おやじがわめいている居酒屋だった。カネ返せ!」というのが否定派のほとんどだろう。予習不足で行先をまちがえただけの話で賛否以前の問題だ。副題をもじっていえば、「無知がもたらす予期せぬ失望」。
映画会社は、かなりの数の勘違い客を見込んでそろばんをはじているかもしれない。

賞賛派のなかには、「落ちぶれたかつてのスターの悲哀を描いた人情味あふれる作品」なんていう人生論的感動タイプもいたが、おめでたいと言ってしまえばそれまでだが、まあ、信じる者は救われる。


 非ハリウッド的だと思ったが、当たり前といえば当たり前。監督はメキシコ人で、最初からミニシアター系作品を撮るつもりだったらしい。

「コミックの主人公を演じて有名になった」との主人公の設定自体が、すでに米国式大衆文化を笑っている。その主人公がレイモンド・カーヴァー原作のブロードウェー舞台で中高年の気取った客を相手に「演技派俳優」として復活しようとあがく姿は、今度は商業演劇とミドルクラスの俗物性を笑っている。

そして、主人公が超能力の持ち主であることを、妄想の可能性を示唆しつつ、ストーリーの随所に挟む演出は、「実存的不安」(日本的にはとっくに死語だが、英米の批評では時々、お目にかかる)をストーリーの通奏低音として響かせている。

全体として、「演劇を以って、演劇を笑う」という自己批評を商業映画として見事に成立させていた。全編ワンカット風カメラワーク、ドラムスだけの音楽も挑発的で、成功した映画的アクロバットとして映画史に残ると思う。


ただ、こうした作品がアカデミー賞をとることに対しては、「ウチの場合、その気になれば、いろいろできるんですよ」という米国興業ビジネスの余裕を感じてしまい、ちょっと面白くない。これは、ひがみか。