<私>は現象である

 昨日はローカル電車を乗り継ぎ、秩父に行く。人口減少はどこの国の話?と言いたくなるような人出だった。地元の高校生が、秩父駅で「この駅でこんなに人をみたのは初めて!」と驚いていた。

 さて、頭のサビが少し落ちたついでに、もう少し「懐疑」について引用してみよう。
筆者は、パリ第八大学心理学部准教授の小坂井敏晶氏。出典は、「UP」2014年6月号所収の「死の現象学

<私>はどこにもいない。不断の自己同一化によって今ここに生み出される現象、これが<私>の正体だ。

比喩的にこう言えるだろう。プロジェクタが像をスクリーンに投影する。プロジェクタは脳だ。脳が像を投影する場所は、自らの身体や集団あるいは外部の存在と、状況に応じて変化する。勤務する会社のために睡眠時間を削り、努力する。わが子の幸せのために、喜んで親が自己を犠牲にする。これら対象にそのつど投影が起こり、そこに<私>が現れる。<私>は脳でもなければ、像が投影される場所でもない。<私>はどこにもない。<私>とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に繰り返す虚構生成プロセスだ。


 「<私>とは不断の自己同一化によって、今ここに生み出される社会心理現象」〜<私>の定義としては、「まあ、そうだよな」と今の小生には非常にしっくりくる。もちろん、前回の「実用的実在論」の立場からは、「そんなバカな。おれは、けがすれば痛いし、焼かれれば骨になる。腹もへれば、子供もいる。現象なんかじゃねえぞ。ちゃんと実物として生きとるぞ」となる。ただ、実用的実在論と空即是色を併用している者からすれば、「実物として機能はしているが、それは集団的現象の土台があるからなんよ」ということ。

三人称の死は他人事であり、一人称の死は疑似問題にすぎない。しかし愛する人や家族の死は違う。これが二人称の死であり、人間にとっての死の本質がそこにある。


今見えている星の光は数十万年前に放たれた。星はもう寿命を終えているかもしれない。それでも私たちにとって星は輝き続け、存在感を失わない。二人称の死はそれと似ていないか。


死者は単なる死体ではない

私の記憶という表現はおかしい。私とは記憶そのものだ。他者と共有した時間をすべて取り除いたら、私自身が消失してしまう。だから身近な人をなくすと、その写真にいつまでも語りかけ、遺品を大切に取っておくのだろう。一人称の世界は、他者との関係に絡められた、原理的に二人称の社会・心理現象なのである。インターネットの仮想世界で育ち、二人称の人間関係を知らない若者が他人だけでなく、自分の命にも現実感が持てない理由は、このあたりにあるのかもしれない。


 

生命に意味などない。再生産を繰り返し、死ぬまで生き続ける。それだけだ。
しかし、私の死を拒む人間を悲しませないために生き続ける。関係せざるを得ない他者の存在が、ひるがえって自己の存在を正当化する。


 「一人称の世界(私の世界)」は、個人的に密接な関係を持っている「二人称の世界」のよって成立しているとの指摘は、もっと展開可能なテーマ。「大切なだれか」を持たない、つまり、「二人称の世界」が希薄になれば「一人称の世界」から現実感が消える、というわけだ。ふむ。