色即是空の実在論

快晴、汗ばむ陽気、まばゆい新緑…よい季節だ

 最近、飲酒の翌日はとみに頭が働かなくなった。よって、思考の快楽もない。快楽がなければ思考をしない…

 昨日、酒を抜いたせいか、今日は久々に哲学書に手が伸びた。脳のサビを落とそうと「時間と存在」(大森荘蔵青土社)のページをめくる。長く読む自信はないので、20ページ分の短い一章「色即是空実在論」を読む。トレーニングのつもりで要約してみる。

 実在論とはどんな「論」なのかを、あらためて考えてみると意味は不明瞭である。

 実在論の中核は、食器、道具、樹木、人体…などの日常的事物の実在性にある。これは思想とか哲学の対象よりも、日常生活そのものである実用実在論である。

 日常的事物は、すべてが3D(三次元)物体である。3D物体は、視点が違えば違って見える。円錐は上からは円形、横からは三角形にみえる。われわれは知覚風景の無限集合として円錐の全体像を理解している。

 また移動する物体が物陰に隠れたとき、その物体がまだ存在しているかどうか確証はない、とカルナップやラッセルは疑問を提示した。しかし、これは見当違い。こういった極端な確認を実用実在論に求めること自体がナンセンス。ヒュームは、「ほどほどの懐疑」(modest scepticism)の意義を提案した。つまり、「懐疑は有効だが、生きるためにはほどほどにするのが人間の本性(human nature)」ということだ。

 個々の物体に対して100%の確認は人間業では不可能。帰納法の論理的証明は不可能というのが今日では教科書的事実だ。帰納法が成立しているのは、それを使うことで日常生活が成立しているからだ。それに逆らえば命を落とす。つまり、われわれが生存していることが帰納法を正当化している。
実用的実在論は、通常は素朴実在論とよばれているが、科学的実在論も自然科学が日常経験を土台にしており、これも精密な言語で成り立っている実用的実在論にすぎない。

 ある意味で、身もふたもない議論ではあるが、ある意味で、日常を生きるわれわれの意識せざる常識でもある。ヒュームが徹底的懐疑主義者ではなく、「ほどほどの懐疑主義者」であるとの指摘は興味深い。確かに、ヒュームは知覚の外には出ないし、それが過度の観念化に対する制御になっている。ただ、素粒子相対性理論など、日常の近くから遊離した自然科学については、この論法では説明できない。

 日常生活では生き生きと働く実用実在論だが、そこで見落とされているのは、過去の実在性だ。
目の前の机は、しばらく前からそこに存在し、しばらくはそこに存在し続けるだろう。こうした机の持続的存在は、過去存在と未来存在を含んでいる。となれば、机の実在性には過去根というべき過去が接続している。

 過去根は日常生活にしっかり根を下ろした頑丈な実在性だが、「過去の実在性」は何を意味しているのか。実は、過去の実在性の意味を経験できるのは、「想起の経験」しかない。「昨日会った彼」は、昨日会ったことを思い出すときにしか出てこない。現在実在が知覚経験の中にあたえられるのと平行して、過去実在は想起経験の中でしか与えられない。想起から離れて自前で実在する過去を把握した人間はない。すべての想起は夢であり、われわれの過去は夢以外のものではない。過去に対応する現実は実在しないのだから。

 しかし「実在する過去」が無意味なら、その否定形である過去の非実在もまた無意味だ。こうして、「過去は実在しない」という命題は無意味であり、有効な命題は「過去は空無である」しかない。

 実生活では、過去の実在は、複数の証言や物証で証明されるとの反論もあるだろう。しかし、過去とは、現在への接続、他者の証言との一致、そして物的証拠という僅かに許された三種類の手続きだけを頼りにする未熟で貧相なものだ。非の打ちどころのない確固とした過去などはありえない。


 ヒューム式に言えば、われわれに許されるのは「ほどほどの過去」なのである。「空無の過去」か「程々の過去」しか、われわれには許されていない。いずれにしても、根拠を持たない点では同じであり、「色即是空の過去」といえる。

 理屈としては了解可能。しかし、「過去の実在性」の証明に関連して大森が「わずかに許された三種類の手続き」をあげているが、これは「わずか」といえるのか。「証明には十分」との立場も可能な気がする。

 カントの実在論は、3D物体の意味を知覚表象の統合統一と考えた。物体の実在は知覚風景によって直接保証されており、客観的物体世界は知覚風景を材料として制作される。

 実用的実在論は人間の生活そのものだから、それを持たないことは生活と生命を放棄することにほかならない。しかし、それ以外の方式を採ることは、死さえ覚悟するならいくらでも可能である。


 その一つが、物体の意味を一切制作しないで空白を保つ方式である。この空無方式を採用すれば、人はただ呆然とその流れに身をまかせるだけで、雨風をふせぐ工夫をしたり、食物を探す気持にもならないだろう。しかしこの空無方式は可能な方式であり、生存に有利とはいえないがとにかく可能な一つのライフスタイルなのである。哲学的実例は20世紀初頭の感覚与件論であり、絵画的描写はセザンヌに始まりブラック、ピカソ、レジェが追求した抽象絵画である。

 われわれは、実用的実在論方式で日常を生きているが、この世界は同時に空無のライフスタイルを可能とする世界なのである。実在論の舟底一枚下は空無である世界なのである。
 
 実用的実在論、その精密化である科学的実在論も含め、実在論は、色即是空の「ほどほどの実在論」でしかありえない。われわれにできるのは、この色即是空実在論にできるだけ親しみ馴れることしかない。

 今後、より強力で確固として実在論への願望が人間の本性(ヒューマン・ネーチャー)から湧き上がるものであっても、それを抑圧して謙虚に色即是空実在論の程々の所にとどまるべきだろう。


 結論として「不完全な実在論」に馴れることを説きながら、「死ぬ気になれば、実用的実在論からはみ出して生きることも可能だぜ」と啖呵を切っている感じが、なんだかかっこいい。

 頭から少しだけサビが落ちた気がしてきた。