訃報、井上忠氏

哲学者の井上忠氏の訃報が新聞に載っていた。享年88歳。


8年前に異動して、それまでより自由時間が多く持てるようになった。異動自体は不本意だったが、10代からの念願であった「存在論」の勉強の好機だと思った。やはりギリシャ哲学から始めようと思い、目に留まったのが井上忠氏の「パルメニデス」(青土社)だった。パルメニデスは、存在論の元祖と言われていたが、関連書籍をまったく読んだことがなかった。値段にたじろいだが、思い切って購入した。


 井上氏の訃報を知り、本棚から「パルメニデス」を取り出してみた。100ページあたりまでは書き込みがあるが、そこで頓挫したようだ。「存在論」の勉強も、「存在と時間」を完読したあたりで燃料切れ状態になり、止まったままだ。


 まったくの勉強不足で恥ずかしくて「学恩」とは言えないが、「パルメニデス」の引用で追悼の意を表したい。

 パルメニデスは完璧に完成された玻璃宮である。それに比べれば、プラトンは、造りかけては放置されたガラスの塔の数多な残骸とも見え、アリストテレスは広大な野外運動場のようにも感じられる。


 パルメニデスは、「探究」の言語としての、<こころ>言語の確立者であった。それは、たんに哲学探究のみではなく、あらゆる論理・理論・科学・思想言語の原型となって今日までわれわれを拘束している。われわれがなんらかの理論めいた思考・発言をするときは、不知不識のうちにいつもパルメニデスの呪縛にかかっている。

 なぜパルメニデスなのか。


 それは少年の日、駒場寄宿寮の屋上で、全天を圧して殺到する光輝に、凝結する自己の殻を瞬目の間に粉砕され、自己よりもなお内なる深淵を射し貫かれた個人体験と、その十一箇月のちに生家で出会った原子爆弾の、すべてを一挙に限りなく透明な紫の光輝世界に変容させた体験が、パルメニデスの語る存在体験と否定しがたく呼応していたから、とも言えるかもしれない。


 灰色の日常事実の地平は、その実、「事実」といういかがわしい表皮を一枚捲れば、豊穣の光輝に満ちる蓮華蔵世界が現出するのではないか。その想いは、幼い日からわたしにいつも囁きかけて倦むことがなかった。


 宗教的な香気が立ち上ってくる文章だ。そういえば、葬儀会場はカトリック教会だった。

 渡辺二郎氏が、「井上氏はハイデガーの深い理解者」と言っていたそうだが、井上氏は、後年、それとは真逆な分析哲学へも研究を進めた。「イノチュー」さんは何者だったのか。「永遠の初学者」なりに調べてみたい。