本居宣長の真価とは

 本居宣長の関連書籍についての書評を紹介したい。

 上野誠による「本居宣長」(田中康二、中公新書)の書評と、前田英樹による「本居宣長古事記伝』を読む」の書評で、いずれも読売新聞10月5日付け朝刊に掲載。

まずは上野氏の書評から。

 日本の古典研究は、宣長以前と宣長以後に分かれる。近代古典学といえども、宣長以後の一つの亜流に過ぎない。正統か異端かの違いはあれど、古典学者は宣長教の信徒でしかないのだ。


 まず、宣長の大きさを強調する。

 本書は宣長研究の第一人者による評伝で、宣長の一生をまるごと引き受けたのだ。部分や一側面ではなく、爪先から頭のてっぺんまでを。


 しかも、「爪先から頭のてっぺんまで」を新書一冊に詰め込んだ。

 私(上野)が感じたのは、宣長は、常に自らの命が有限であることを意識し続けた人であるということだ。死というゴールに向かって、着々と準備を進める人なのだ。自らの持てる時間と気力と体力を常に考え、着々と仕事をこなす人なのである。常に自分を二分割し、心の中に、宣長本人と自己を指導するコーチを住まわせている。だから、コーチは宣長本人のプロデュースも行う。自らの葬式も、お墓もすべて事細かに指示している。

 一方、宣長宣長株式会社ともいうべき私塾の経営者でもあった。スポンサーを見つけ、支店網を拡げる経営戦略を取る。死後も会社が存続できるように次々と手を打っている。自らを神格化し、社訓も作って、死に備えている。


 宣長さん、あなたは喰えない人ですね。末流信徒より!


 次は、前田氏の書評。

 現代人の本居宣長評価には二通りがある。ひとつは、近代文献学の先駆けのように言い、その実証性を褒める。もうひとつは、「漢意(からごころ)」を排撃し「神ながらの道」を説く思想家としての宣長をあげつらう。

 実際には、宣長の仕事は、文献学とも思想の表明とも係わりがない。それは、ひとつの激しい信仰による膨大な古語との格闘だった。


 神野氏の作業は、始めから終わりまで、宣長の古語注釈ひとつひとつの読みに集中する。宣長の思想も学問も、古語を扱う具体的な手振りのなかでしか、その秘密を明かさないことを、氏は示そうとする。ここには、宣長をめぐる幾多の論考への強い批判がある。が、それだけではない。


 宣長が出る前には、解読不可能な文字表記の集まりだった「古事記」という奇怪な書物を、彼が、いかに古代人の暮らしの根底を成す言霊空間として、驚嘆すべき一貫性のもとに創り直したか。そのことをこそ、神野志氏は伝えたいのだろう。


 宣長以前、古事記はどの程度、世間に知られ、その解釈はどのようなものだったのか。

 大きな影響力を持つ古典が、実は書かれてから相当の時間がたって、後世の人物にその意義を見出されて突然「偉大な書」として出現することがある。古事記もその一例なのか。