「大いなる沈黙へ」に潜む自我

映画「大いなる沈黙へ」を観た。

フランスの人里離れた修道院で俗世を捨てた修道士たちが静かな生活を送っている。その究極の禁欲生活を記録したドキュメンタリー映画だ。汚濁にまみれたわが身が少しでも浄化されるのでは、と岩波ホールにでかけた。

ハリウッド映画とは真逆のウルトラ地味映画だが、館内は満員だった。音楽は一切なく、登場人物もほとんどしゃべらない。起承転結のストーリーとも無縁で、上映は3時間に及ぶ。

地味で暗い映画はこれまで多数お付き合いしてきたが、観客睡眠率ではこの映画がトップかもしれない。周囲をみると6割近くの観客が首をガクッと前に倒しスクリーンに顔を向けていなかった。小生自身も上映時間の真ん中あたりはほとんど意識不明、その前後も冬山の遭難者のように「寝たら死ぬぞ」と自らに言い聞かせ、睡魔と闘っていた。

 さて、「わが身の浄化」はどうなったか。残念ながら、期待ほど浄化もされなければ、それほど反省を迫られるものでもなかった。

 その理由は、上映中に当方が仮死状態だったこともあるが、画面に登場する修道士たちにある種のナルシシズムを感じたからだ。

修道士たちは、集団で山奥に住み、カギをかけられた独房のような部屋に監禁状態で暮らし、ひたすら祈り、神に近づいたと実感する。俗世で汚濁にまみれている人間に言う資格はないかもしれないが、そうした「純粋な信仰生活」の背後に「集団ベースの相互強制」や「自己陶酔」が見え、違和感が残った。社会をまるごと捨てて、山中で独居し、ヒゲぼうぼうでボーッと雲をみている東洋的仙人の方が、当方にとってはやはり浄化効果があるようだ。

 西洋の坊さんの方は、カネもうけしたい、うまいものを食べたい、といった世間的な欲望からは無縁かもしれないが、そうした欲望の母体となる自我は、禁欲的生活でむしろ強化されているのではないか。

「小隠は山に隠れ、大隠は朝廷にあり」との極東の坊さんの言葉を思い出した。