映画「消えた画」の伝達深度

 映画「消えた画―クメール・ルージュの真実」(リティ・パニュ監督)を観た。

 カンボジアの泥で作った土人形で「クメール・ルージュ」による大虐殺の悲劇を描くという「離れ業」に挑戦した作品。作品としての完成度は非常に高い。土人形がだんだん実物の人間に見えてくる。その一方で、作品中に紹介される「クメール・ルージュ」のプロパガンダ映画の実写の人物たちが作りもののように見えくる。ナレーションも詩的、かつ、抑制がきいていた。


 ただ、カンボジア現代史を知らない人には、牧歌的な幸せの中にあったカンボジアが突然、狂信的な共産主義グループ「クメール・ルージュ」に乗っ取られて大虐殺が起こったとの印象を与えるかもしれない。実際は、その前に、腐敗したロン・ノル親米政権があり、さらに米軍の空爆で農業インフラが大打撃を受けて国内は混乱状態にあり、それが、「クメール・ルージュ」の伸長を可能にした。しかも、「クメール・ルージュ」の幹部たちはポルポトをはじめパリ留学経験者であり、彼らのイデオロギーはアジアで純粋培養されたわけではない。


 映画の完成度には感心しつつ、「歴史的な背景説明を省くと、この映画自体がある政治性をもってしまう」と気になっていたら、最後の方で、亡くなった監督のお父さんの口を借りて、「おまえ(監督)はクメール・ルージュのことばかり言っているが…」と注意喚起があり、またパリ留学や米軍の爆撃などにも言及するシーンがあって、ほっとした。


 パニュ監督自身が、この悲劇の時期にプノンペンで少年時代をおくり、家族とともに収容所に送られ父母を奪われた悲惨な経験を持つ。歴史的説明などは、十分すぎるほどわかっているはずだ。しかも、インパクトを狙えば、その直接的な体験を俳優を使ったもっと生々しい映像ドラマで再現することも可能だったはずだ。当事者としての身を切るような怒りや喪失感を、あえてストレートに表現せず、土人形を使って距離化した形で表現した。それゆえに、監督個人の体験だけでなく、犠牲になった無数の人たちの無念や哀しさが、観ている側の底にまで届いた。「伝達の深度」が達成されている。

 監督は「クメール・ルージュ」の解説記事を書きたかったわけではない。疑問を抱いた私が浅はかだった。


 パンフレットから、関連個所を引用する。


 自身の物語を映像化する本作で、監督は登場人物を土人形で象っている。生身の人間による「再現」は、はなから考えていなかったという。理由は明快だ。あの究極の疲労、飢餓、心身の衰弱と虚無を体現できる肉体は、存在しない。演技以前に、演じる者の生命力が、あの現実を生きた者たちを傷つけ、映画を侮蔑することになるだろう。逆に言えば、その不可能性の中にこそ、監督自身が投げ込まれた死と恐怖、非人間化された世界がある。
                         中村富美子

※映画のBGMとしてクメール語カンボジア語)の歌が流れていたが、そのなかで聞き覚えのあるメロディがあった。「あれっ、これは!」。なんと三橋美智也の「達者でナ」だった。♪わあーらにまみれてよー、そだてたくーりーげー♪という、あれである。
 そういえば、四半世紀前にプノンペンのあやしげなバーで飲んでいたら、城卓矢の「骨まで愛して」のメロディが流れていた。その昔、日本の流行歌をカンボジアにせっせと紹介した人間がいたらしい。パニュ監督自身も、日本の曲であることに気づいていないと思う。