「純粋理性批判」の長旅スタート

 60歳になったのを機に、「純粋理性批判」読破の長い旅に出ることにする。テキストは、光文社古典新訳文庫中山元訳)の全七巻(!)を使用する。文庫の帯にある「もう入門書はいらない!」のキャッチフレーズにもグッときた。


 今日は、ヴェルラムのベーコン「大革新」序と序論の数ページを読む。

 われらはみずからについて語ろうと思わぬ。読者はここに書かれたことを、たんなる私見とみなすことなく、一つの<事業>とみなされんことを。人類に恩恵をもたらす広大な土台を構築しようとするものであると確信されんことを。

 われらの大革新を無際限なもの、あるいは死すべき人間の業を超えたもののように考えたり、みなしたりしないことを願うものである。この大革新こそ、尽きざる誤謬を終わらせ、その正当な限界を示すものだからである。
 
                       「大革新」序


 「この著述は、人類に恩恵をもたらす土台を築く大事業」と壮大な宣言をすると同時に、「人間の業を超えたものではない」と神がかりではないことも明言する。「神の力を借りず、人間認識の限界を示す」ことがいかに大事業であるか。カントの覚悟が伝わってくる。

序論

第一節 純粋な認識と経験的な認識の違いについて

 わたしたちのすべての認識は経験とともに始まる。


 カントは、対象は人間の感覚のうちに像を作り出すか、人間の知性に働きかけるかの二つの方法で人間の認識能力を呼び覚ますとしている。

 人間は認識能力によってできた対象の像を結びつけたり分離したりして、対象の認識をつくりあげる。これが「経験」と呼ばれる。だから、時間的にみれば、経験に先立つものは何もなく、すべてが経験とともに始まる。

 すぐにカントは留保条件をつける。


 わたしたちのすべての認識が経験とともに始まるとしても、すべての認識が経験から生まれるわけではない。なぜなら、経験によって生まれた認識も一つの合成物であるからである。


 合成物は、感覚的な印象で受け取ったものと、固有の認識能力が作り出したものの二つで成立していると説く。


 ここでカントはいきなり核心的な問いを発する。

 感覚のすべての印象から独立した認識というものが、存在するかどうか?

 すぐに解決できないとしながら、「アプリオリな認識=経験から独立して生まれる認識」として「経験的な認識」と区別すると提案する。


 「アプリオリな認識」は誤解されやすいので、カントは例をあげて説明する。

 ある人が自分の住んでいる土台を掘り崩している。この人は、自分の家が倒れた経験がなくても、このまま掘り崩せば自分の家が倒れることがわかる。ただ、これは「アプリオリな認識」ではない。なぜなら、この認識は、物体には重さがあり、物体はそれを支えるものを取り外すと落下することを経験的に知っているから成立しているからだ。

 なるほど。

 「アプリオリな認識」とは、すべての経験から絶対的に独立した認識である。アプリオリな認識のうちでも、経験的なものがまったく混ざっていない認識を「純粋な認識」と呼ぶことにする。「すべての変化にはその原因がある」という命題はアプリオリな命題であるが、純粋な命題ではない。変化という概念は、経験からしか引き出せないものだからである。


 ふーっ。文庫で正味6ページ読んだだけで、これだけ引用とメモを書いてしまった。全7巻。読了するころには古希になってしまう。「存在と時間」は読了に成功したが、「論理哲学論考」は挫折した。さあ、今回はどうなるか。まあ、ぼちぼち行きましょう。