六十に至る

 私事ながら本日は60回目の誕生日。これまで10歳ごとの節目に特段の感慨を覚えたことはなかったが、今回は少し違う気分だ。未知の世界に足を踏み入れる不安と期待がある。


 小学生のころ、少年マガジンに、「ケネディ暗殺を予言した人物が、1970年に世界大戦が起きて人類は滅ぶ」という小さな記事が載っていた。「オレの人生も16でおしまいか」と覚悟したことを覚えている。今や、1970年なんて大昔になってしまった。これからは、「自我を軽くして自我を遊ぶ」なんてことができればいいが…。


 谷川雁は35歳で詩作を封印した詩作を60歳直前になって再開した。その詩集「海としての信濃」(深夜叢書社)のあとがきに自身の60歳について、こう記している。

 六十歳。きたない水たまり。いまさら、それ以外の物質になる気もないが、だが、そう言ったからとて、あの発端が清められるわけではなかろう。

 突如あらわれた、この老いは何者か。いま、てのひらの筋を指すように言える。あれは非日常の火にまといつかれた二十一歳が手もとに置いた原器「六十歳の私」だった。

 老いたおのれが若いおのれを食用として煮る至福の構図。耳もとでだしぬけにぞんざいな口をきいたやつがいる。<おまえの肉はいまどんな味がするのかね>阿保の声は若かった。それはあの世界大のからすをじりじりと褐色に焦がしていく力の短縮形であった。

 6年前の誕生日をきっかけにブログを始めたが、正直、手詰まり状態の感あり。還暦とは「生まれ直し」であり、これをきっかけに反転攻勢にしたい。まずは手数を出していきたい。


 修道僧のような暮らしをめざすわけではないが、これからフランスの修道院を舞台にした映画「大いなる沈黙へ」を見に行く。生まれて初めてシニア割引を使う歴史的な日になる。年を取るのも悪くない。

写真は眼前の風景