「現実主義者」の非現実的妄想

 現実には当然のことながら、「自己」が含まれている。それどころか、客観的だと思い込んでいる現実像のほとんどが「自己」のゆがんだレンズを通して映じた主観的イメージである。ただ、リアリズムを「自分勝手な思い込み」から峻別するのは容易ではない。そこで助けになるのが論理である。リアリストを自称する者は、論理に鋭敏でなくてはならない。


「だれがこの世で一番、きれい?」と鏡をのぞき込む魔法使いのおばあさん。そこに映っていたのは…



 国際政治でいう「ポストモダニズム」は、グローバル化が進む21世紀には伝統的な国民国家が重要性を失っていき、EUのような新しい人類の共同体に向かって進む、という立場だ。現実は逆方向に動いており、国家崩壊論が崩壊している。「国際市民社会」などというリベラリズムは危険であり、国家を基本とした秩序維持が必要である。


「リアリスト」を自認する某国際政治学者が、ある雑誌で「今こそ、国家重視を」と説いていた。さらに彼は、米ソ冷戦時代は平和的だったと論を進める。


 冷戦後は、小さな紛争は生じても人類社会はより調和的になるとフクヤマは言ったが、現実に紛争や対立は激化している。冷戦時代は米ソの両陣営が対峙して、それが安定をもたらし、むしろ平和だった。


 ふむ、冷戦時代は国家を超えた米ソ両陣営システムで秩序を維持していたのなら、冷戦後の国際紛争増加の原因は、そのシステムが消滅後の不完全な状況下で国家が紛争の単位として復活してきたことにあるのではないか。ならば、対処療法としての国家間関係重視はともかく、冷戦システムにかわる国際的な安保システム構築こそが根本的な解決策になるのが、この論者による論理の道筋ではないか。


「冷戦下の平和評価」と「国家重要での国際関係秩序維持」は論理的につながらない。この二つをつなぐものは、自称「リアリスト」による、「夢見るリベラリスト」たちへの侮蔑的批判である。

 リベラリストを「現実知らずのお坊ちゃん」に見立て、自分は現実世界の酸いも甘いも嚙み分けた百戦錬磨の大人だと思い込む傾向が、自称「リアリスト」にはよくみられる。ふた昔前は、これが世代論として成立していたので、年上層が多い「リアリスト」たちには、少なくとも実体験の蓄積があった。


 しかし、近年の「現実主義」は、都会育ちの「お坊ちゃん」が主導し、都会生活の苦境を「母なる日本」への一体化の妄想で忘れようとする「非お坊ちゃん」たちが従う構図になっている。かつて農本主義的右翼が持っていた農村的現実に根差す切実さと凄みにも無縁だ。


「現実」もなめられたもんだ。