ユダヤ人虐殺問題の普遍性、アーレント

アーレント映画の続編です。この映画の原作とも言える「イェルサレムアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」(ハンナ・アーレントみすず書房)から、興味を引いたところを紹介します。映画だけでは見えなかった部分やわかりにくかった背景が、この本を読むと鮮明に見えてきます。

アーレントは、「ナチによる大虐殺」はユダヤ人問題に限定されない、どの地域、どの民族にとっても普遍的な問題である、とのスタンスをとっており、これが「反ユダヤ主義だけが大虐殺の動因」とするユダヤ人社会からの強い反発を生みました。本書は、多くの論点を含むので、ゆっくり、何度かにわけて紹介していくつもりです。今日は、第一章「法廷」です。この章だけでも、重要な論点がたくさんあります。

※文章末尾に「引用」の表記がなければ要約です。アーレントの文章が時に回りくどく、さらに、訳文が直訳過多のひどい日本語なので引用しづらいという事情もあります。

裁判はヘブライ語で行われたが、裁判長も被告も、そして多くの傍聴人もドイツで教育を受けた人間だった。しかもヘブライ語からドイツ語への通訳は程度が低く、裁判長は通訳が訳し終わるのを待たずに答えることが多かったし、裁判長自身が通訳による訳語の間違いをしばしば訂正した。


裁判の進行を犠牲にしてまでヘブライ語を重視したのは、イスラエル政府が、悲願のユダヤ人国家である「イスラエル」の存在を世界中にアピールする目的があったためだ。

 裁判の対象は、アイヒマンの行為であって、ユダヤ人の苦難でも、ドイツ民族もしくは人類の反ユダヤ主義や人種差別主義ですらもないのである。

しかし、検察側の主張は、ユダヤ人の苦難の上に組み立てられており、アイヒマンの行為の上に組み立てられているのではなかった。検事側は、ユダヤ人のために正義を行い得るのはユダヤ人の法廷のみであり、ユダヤ人の敵を裁くのはユダヤ人の仕事であると信じていた。

だから、この裁判がユダヤ民族の身を借りて人類に行われた犯罪のためにアイヒマンを告発する国際法廷などと少しでも言うと、イスラエルではほとんど全員一致で敵意に満ちた反応が見られたのだ。

 検察側は、裁判を「ユダヤ人による民族的復讐」とみられないために、法廷で「われわれはいかなる人種的差別もおこなわない」と発言した。


 これは奇妙な宣言だった。イスラエルでは、ユダヤ教の律法がユダヤ人市民の身分を定めており、ユダヤ人は非ユダヤ人との結婚を認められず、非ユダヤ人を母とする子供には法律上、結婚も埋葬も認められなかった。


こうした「差別」を是認しながら、イスラエルの検察側は、ユダヤ人とドイツ人との通婚を禁じた1935年のニュールンベルグ法を糾弾する無邪気さを見せた。この皮肉に気がついた外国人記者はいたが、今は彼らの国の法律や制度が間違っていることをユダヤ人に教えてやるべき時ではないと考えていた。


そして、法廷ではナチによるユダヤ人に対する想像を絶する悲劇の証言が体験者から延々と展開された。


 この裁判は、傍聴するイスラエルユダヤ人たちに、ユダヤ人が非ユダヤ人の間で暮すことがいかに危険であり、ユダヤ人はイスラエルにおいてのみ安全でまともな生活を送ることを悟らせるものとなった。


 イスラエル建国の立役者であるベン=グリオンが、こうした裁判全体の見えざる舞台監督であった。


 ベン=グリオンは、党機関紙に「離散ユダヤ人は、倫理的努力で『敵対的世界』と対抗してきたが、(今回の大虐殺でわかったように)羊のように死に逝くまで堕落してしまった。そして、今やイスラエルというユダヤ人国家設立によって初めて、ユダヤ人はスエズ事件や国境での紛争で敵に反撃を加えることができるようになった」と書き、イスラエルの英雄精神を国外のユダヤ人にアピールした。


さらにイスラエル国内の若いユダヤ人に対して、ベン=グリオンは「ユダヤ人を襲った歴史上の最も悲劇的な事実を知る必要があ る」とし、さらに「アイヒマンイスラエルで裁判にかける理由のひとつは、アラブ支配者たちとナチどもとの結びつきを探り出すこと」と書いている。

 アーレントは、上記のように「イスラエル国家の正当化」というアイヒマン裁判の政治性を暴露したうえで、これを批判する。

そもそもイスラエル国家は、ユダヤ人を多元性の上に成り立つ諸民族のうちの一つの民族、諸国民のうちの一つの国民たらしめることを目的にしていたのであり、宗教に根差した「ユダヤ人対異教徒」という旧来の二分法を許容するものではない。

今日のパレスチナ問題でも、この二分法は依然、強固に存在し、解決の目処は全く立っていない。


そもそも「ユダヤ人」という宗教的定義を土台とする、通常の民族概念とはかなり異質なカテゴリーが「民族の多元的共存」の枠内で可能なのかどうか。つまり、「ユダヤ人問題とはそもそも民族問題なのか」という根本的な問いにつながる。


アーレントは、「ナチによる大虐殺」における犠牲者の従順さについても、人類全体の問題であると主張する。

ユダヤ人たちは、定刻に輸送のための集合地点に着き、処刑の場所へ自分の足で歩いていき、自分の墓穴を掘り、裸になって服をきれいに積み上げ、射殺されるために並んで横になった。検察側は、「なぜあなた方は一万五千もいたのに数百人の監視兵に襲いかからなかったのか」と質問したが、これは長期の離散生活で堕落したユダヤ人の屈従的な無気力のせいではなく、ユダヤ人以外の民族もそうした場合には同じ様にふるまった。


SSは、犠牲者たちを死刑台に上る前に、自分を否定し自分自身であることを放棄するまで責め苛んで骨抜きにしてしまった。人形のように死に向かって歩む人間の行進ほど恐ろしいものはない。

法廷で、ユダヤ人の苦難のみを語ろうとしてことは、真実を、しかもユダヤ人の体験した真実を歪めていたのだ。

ドイツ人のアイヒマンが、外国のイスラエルで裁かれた点にも、アーレントは政治性をかぎとる。

 いかなる主権国も自国の犯罪者を裁く権利を守ろうとするが、ドイツ当局はアイヒマンの引き渡しを要求しなかった。独政府の公式見解は、イスラエルとドイツの間には犯罪者引き渡し条約がないというものだったが、条約の不在は、「引き渡しを強制できない」ということであり、引き渡しは要求できた。

独政府が身柄引き渡しを要求しなかった理由は、ヒトラー体制で高い地位にあった多数のナチ党員が、戦後のドイツでも連邦政府や州政府で指導的な位置にいたからである。彼らはヒトラーに協力したが、「虐殺の意図はなく、ただ行政権のトップであるヒトラーの命令に従っただけ」とするアイヒマンと同じ立場にあった。


ドイツで裁判になり、アイヒマンが有罪なら彼らもユダヤ人虐殺に荷担した責任を問われることになり、政府や州政府は大混乱になる。無罪ならば、ドイツは戦争責任から逃げたとして国際的な非難にさらされることになる。いずれにせよ、ドイツでのアイヒマン裁判は大きな政治的リスクを生む。

イスラエルでも検察側は、賠償金を支払うドイツ政府に配慮してか、ドイツ国民全体に及ぶこうした共犯関係についての言及を慎重に回避した。


本日は、ここまで。反ユダヤ主義に限定しないでナチスを考えることの重要性を痛感する。