アーレント映画、大入りの不思議

 神保町で「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)を観た。平日の夜七時からの上映に、余裕を持って50分前にビル十階にある岩波ホール行ったら、すでに八階の階段から列が出来ていた。まじかよ!


 とてもアーレントの読者とは思えない若い女性が多く、それはそれで歓迎すべきことであったが、この異様な混み具合は、現在のお江戸の民度からして異様だった。終映後、「難しかったね」、「ワタシ、あんなに考えるのムリ、ムリ」と感想が聞こえてきた。なにが人気のきっかけになったか、気になった。


 さて、映画の方は、複雑で錯綜するテーマを落ち着いてまとめており、その「大人の仕事」ぶりに感心し、かつ堪能した。

 ヒトラー政権下で強制収容所へのユダヤ人大量輸送の担当責任者だったアイヒマンは、戦後、逃亡先の南米で逮捕され、イスラエルで裁判にかけられ死刑となった。大量殺戮の責任を追及されたアイヒマンは、「自分は公務員として、公務を遂行しただけ」と無罪を主張したが、有罪判決が下り死刑になる。


 ユダヤ系女性政治学アーレントは、イスラエルで裁判を傍聴し、雑誌に「これは考えることをやめた人間が犯した凡庸な悪」と指摘、さらにユダヤ人指導者も当初、ユダヤ人移送に協力していたとの調査結果を示したため、「ナチス擁護」として激しい反発を受けた。


 映画のシナリオから、アーレントの主張をみてみる。

 彼(アイヒマン)は検察に反論しました。「自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在していない。ただ命令に従っただけだ」と。

 こうした典型的なナチの弁解から分かることがあります。それは、世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には、動機もなく、信念も邪念も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を私は「悪の凡庸さ」と名付けました。

 アイヒマンを擁護などしていません。私は彼の平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが、理解を試みることと許しは別です。この裁判について書く者には理解する責任があるのです。


 人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。思考できなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。…私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。


 「イェルサレムアイヒマン」(みすず書房)も、訳文の日本語としての拙劣さに閉口しながら読み終えた。こちらからの引用は、またの機会に。

 アーレントハイデガーとのただならぬ関係は有名だが、映画に出てくる若き日のアーレントや中年ハイデガーが本物の写真とそっくりで驚いた。


 凡庸な人間たちの思考停止が大規模な悪につながっていく。言うまでもないが、この国でも前例は数知れず、そして再発しない保証はない。