「水割り道元」の功罪

 30数年ぶりに越前の永平寺を訪れた。当時の記憶はおぼろげだが、長い階段を上って行くうちに少しずつ記憶がよみがえってきた。


 本堂の建物に天皇家の紋章である「菊の紋章」がいくつもあった。道元は、中央権力に背を向け深山で座禅三昧の生活を送っていたとの印象が強いので、不思議だった。

 そこで理由が知りたくなり、近くの本屋で「街道をゆく 18 越前の諸道」(司馬遼太郎)を買って該当箇所を拾い読みした。こういう時に司馬本は便利だ。仏教に詳しく、素人向けの説明力が高く、しかも版を重ねているので致命的な間違いがあれば訂正されている(と思いたい)からだ。


 司馬説明の概略は以下の通り。


 道元は幼くして父母を亡くし、14歳で比叡山に入り天台宗を学んだ。しかし、道元は、密教的要素を持つ天台宗に満足できずに下山して、臨済宗建仁寺に身を寄せ、禅のさらなる探究のために24歳で中国(宋)にわたる。


 中国では、大寺院暮らしで俗化した宋の僧侶たちに失望したが、禅僧の如浄師に出会い、「参禅は身心脱落なり。俗世から離れ、ひたすら座禅せよ(只管打座)」との教えを受け感得する。


 帰国後は、建仁寺にいたが、禅宗を嫌う比叡山からの圧力も強まり京都を離れる。44歳で越前の山中に小寺(永平寺前身)を建て、世俗に背を向け、出家者を対象に教えを説いた。

  
 道元の死後、三代目の義介(ぎかい)は、最初は永平寺の炊事長や事務長を務めた実務派だった。義介は、修行者の個人的悟りよりも教団組織強化を重視し、大寺院経営を学ぶために宋に渡ったほどのビジネスマインドの持ち主だった。帰国後、義介は、小寺を大寺院に建て替え、道元が嫌った現世御利益の加持祈祷を密教から取り入れ民衆への普及をはかった。やがて義介は派閥抗争に敗れ永平寺を追われ、加賀で大乗寺を興す。


 義介を継いだ大乗寺2代目の瑩山(けいざん)がこの大衆路線を強化して加賀一帯に支持を広げた。

 一方、永平寺には有力な僧侶があらわれず、鳴かず飛ばずの状態になった。信徒が増え経済的に力をつけた大乗寺派は、宗祖・道元が開いた永平寺のブランドを獲得するため、大乗寺派僧侶を永平寺のトップにすることに成功した。さらにその財力で、戦国時代で困窮していた朝廷に多額の献金を行い、永平寺は、当時の後柏原天皇から「本朝曹洞第一道場」という称号を獲得し、天皇ブランドで箔をつけることにも成功した。


 ようやく、永平寺に「菊の御紋」が付けられている理由までたどり着いた。

 司馬解説によると、「永平寺に菊の御紋」の背景には、個人主義的思想が個人主義的色彩を消すことによって拡大していく皮肉なプロセスがあったようだ。つまり、道元の一番大事な部分を薄めることで、道元の教えが普及したことになる。「水割り道元」で販路拡大成功というわけだが、それって、まだ「道元の教え」なのか。同様の例は、キリスト教史も含め、古今東西、無数の実例があるが。


 ちなみに、同じ禅宗である臨済宗栄西)は、茶や庭園を通じて将軍や豪商に接近して勢力を拡大し、曹洞宗の大衆路線とは対照的な普及の道をたどった。この禅宗二派の違いをさして、「臨済将軍、曹洞土民」との言葉があるそうだ。

 ただ道元の思想にとって、大衆路線がマイナスしかもたらさなかったわけでもない。そもそも大衆路線への変更がなければ、主著「正法眼蔵」が散逸して残っていなかった可能性は高く、道元の存在自体が歴史の闇に消え去っていたかもしれない。