龍馬と海舟の連続墓参り

出張帰りに京都に寄る。時間があったので、思い立って、東山にある坂本龍馬の墓に初めて足をのばす。霊山護国神社境内の斜面にめざす龍馬の墓があった。隣には、一緒に襲撃された中岡慎太郎の墓もあった。
何度がテレビで見ていたので驚きはなかった。それより、斜面には京都で亡くなった各藩の幕末の志士たちの大小の墓が並んでいた。その数は三千を超えるという。墓標の群れは、徳川時代に全国各地からこれだけの活動家が京都に集まり、命がけの政治闘争が行われていたことを実感させられた。関所に象徴される藩の間の往来が制限されていた徳川時代の「静的秩序」は、この時期にすでに崩壊していたということだ。神社の隣にあった霊山歴史館ものぞいてみたが、こちらは「なんじゃこりゃ」と失望した。


 出張から戻り、休日の今日、何気なく都内の洗足池までふらりと出掛けてみた。洗足池に行くのは初めて。池の周囲をぶらぶら歩いていたら、なんとそこに坂本龍馬と深い関係があった勝海舟の墓があった。「昨日、龍馬で、今日は海舟さんか」と偶然に驚く。


 今から約150年前の1862年12月に、土佐の脱藩浪人であった龍馬は、越前藩の前藩主である松平春獄の紹介状を持って、当時、幕府の軍艦奉行であった勝海舟に初めて面会した。勝は後に、この面会について、開国論者であった海舟を龍馬は斬る覚悟でやってきたが、海舟の持論に感銘を受けて龍馬は海舟に弟子入りしたと書いている。小説やドラマで有名な場面だが、晩年の海舟は、話を面白おかしくするためにホラを吹く癖があったので、これも本当かどうか疑問の声もあるとか。


 ネットで検索していたら、龍馬は、勝海舟大阪町奉行・松平信敏に預けていた海軍繰練所の運営資金400両のうち50両(現在の金額で200万円ほど)を横領したため、海舟から絶縁されたとの説がみつかった。真偽のほどは不明だが、あり得る話かもしれない。


 個人のエピソードの集積として歴史を語るのは個人的には「趣味」ではないが、二日続けて、思わぬ墓参りとなったので、日記代わりに書き留めておきます。


※写真は、「坂本龍馬の墓(左)、右隣は中岡慎太郎の墓」と「斜面に並ぶ幕末の志士達の墓標群」