プリーブケ死去とイタリア現代史

 エーリヒ・プリーブケの死亡記事が今日の夕刊の片隅に載っていた。享年100歳。

 1944年3月24日、プリーブケはナチス親衛隊将校として、ドイツ軍がローマ郊外でイタリア市民ら335人を殺害した指揮をとった。ドイツ敗戦後、捕虜収容所から脱走してアルゼンチンに逃亡、50年間、一般市民として生活後に1994年にアルゼンチン政府に逮捕され、イタリアに引き渡され、裁判で終身刑となった。この時、85歳。高齢のため、収監されず、自宅で軟禁生活を続けていた。

 プリーブケがイタリアに送還された時、風船子はローマに住んでいた。地元マスコミはこのニュースを連日、大きく報じた。彼はイタリア人にとって、大きな意味を持つ人物だったからだ。第二次大戦と戦後の複雑に交錯したイタリア現代史を体現した人物であるといってもよい。

 ここで第二次大戦時のイタリアが置かれていた状況を復習してみたい。日本では、二次大戦のイタリアと言えば、日独伊三国同盟から最初に離脱して連合軍に降伏した国、とのイメージが強い。「イタリア=女たらしの軟弱国家」のステレオタイプが背景にあるせいかもしれない。

 しかし、イタリアのファッショ内閣は、ムソリーニ首相を閣議で解任して逮捕、同盟国ドイツに事前通告せずに連合国に降伏する。降伏後、イタリア駐留ドイツ軍はそのまま占領軍としてイタリアにとどまり、イタリアは、「連合国側プラスの南部のパドリオ政権」対「ドイツ軍プラス北部のムッソリーニ政権」と南北に分裂して相争う事態となった。南部イタリアは、ドイツに宣戦布告までしている。

 多くのイタリア人の第二次大戦観は、「俺たちは自分たちの手でムッソリーニを追放し、ナチスと戦って勝利した。日独のような敗戦国とは違う」というものだ。このあたりは、過去記事でも触れたので、関心のある向きはご参照を。
http://blogs.yahoo.co.jp/soko821/29670065.html
 
 ローマがドイツ軍支配下にあった時、共産党パルチザンが、ローマ中心部のラセッラ通りで、荷車の載せた爆弾でナチスSSの隊列を攻撃して32人を死亡させた。ドイツ軍は翌日、報復として、捕虜収容所にいた約70人のユダヤ系を含むイタリア市民335人を郊外の洞窟に連行して銃殺した。プリーブケは、このアルデアティーネ洞窟での虐殺を現場で指揮した。

 
 この虐殺事件は、イタリア人にとっては、「ナチスの被害国」との戦争観のシンボルになり、毎年、虐殺現場で式典を開かれている。風船子も、20年前に式典現場に行ったが、大統領まで出席する重要度の高い行事だった。それだけに、虐殺の主役の一人であるプリーブケ送還は、加害者断罪の大きな意味を持っていた。

 しかし、その後、イタリアはベルルスコーニ率いる右派政権が続いたあおりで、戦時中の左派の反ドイツ抵抗運動を「事実を誇張したパルチザン神話」として批判する歴史修正主義運動が起きる。修正主義派は、この虐殺事件も、「左派パルチザンは報復で市民が殺されるのを承知で反ドイツテロを行った」、「ドイツ軍はテロ実行犯が自首すれば報復はやらないと呼びかけていた」などと主張しはじめた。

 これに対し、「歴史への冒瀆」として左派が反発、裁判闘争となり、2007年にイタリア最高裁は、パルチザンの攻撃を「ドイツ占領軍に対して行われた、軍人のみを標的とする正当な戦争行為」と認定し、さらに、「虐殺はドイツ軍への攻撃後24時間以内に実施され、虐殺完了後に公表されたので、事前の自首への呼びかけは事実無根」との判断を下した。まだ、6年前の出来事である。その意味では、イタリアでも戦争の後遺症はまだ続いている。
 
 ラセッラ通りは、ローマ中心部のバルベリーニ広場のすぐ近くにある坂道。かつて、目抜き通りの裏手を走るこの通りに立ち、ナチス親衛隊の軍靴とパルチザンによる爆弾の炸裂を思い浮かべた記憶がある。
 
 この時、攻撃を受けたドイツ軍のボーツェン大隊は、南チロル出身者で編成された部隊だった。南チロルは、第一次大戦オーストリアからイタリアに編入された土地。住民はドイツ語を母語とするゲルマン系が多く、第二次大戦中は、ドイツ市民権を獲得してドイツ軍兵士になる住民が多かったという。つまり、イタリア人パルチザンに爆殺されたドイツ将兵の多くが二次大戦前まではイタリア人だったことになる。ここにも、イタリア現代史の入り組んだ歴史模様が隠れている。

 プリーブケ死去がイタリアのメディアでどのように報じられているか。それは現在の政治状況を反映しているはずだ。