寺山修司の現代詩辛口評論

寺山修司が書いた現代詩に対する辛口批評が新聞の書評欄で紹介されていた。この批評が載っているのは、「戦後詩」(寺山修司講談社文芸文庫)。

 これは、寺山修司が1965年、29歳の時に書いた批評だ。


 たとえば茨木のり子
「わたしが一番きれいだったとき」などは、教科書でひろまった。倫理的できりっとした詩は、人びとによろこばれるが、寺山はいう。
「あまりにも社会的に有効すぎて、かえって自らのアリバイを失くしてしまっているのではないか」。


吉野弘の詩「たそがれ」は、「他人の時間を耕す者」が、夜になり、自分に帰るひとときをうたうもの。これにも疑問をもつ。
 <「公生活」から解放されるという意味なのであろう。だが、「公生活」がなぜ他人の時間を耕すことになるのか?>
 人は「全体的なパーソナリティ」で生きるべき。<帰ろうとすれば「いつでも自分に帰れる」から詩人なのであって、それができないような「他人の時間を耕す生活」なら放棄してしまえばいいではないか。>
 会社では仮の姿。夜のわたしはすごいぞお、という人はいまも多い。人生全体の思考の場にかかわる、重要な指摘だ。


 また「おやすみ」ばかりの詩の世界に、はじめて「おはよう」の詩をもたらした谷川俊太郎。でもその後の詩はどうか。「ことばが面白ければ面白いほど、私はなぜだか楽しめなくなっている」。


「荒地」の詩人田村隆一黒田三郎らにも手きびしい。「自身の破滅を通してしか世界を語れなくなってしまった」。いっぽう「私は、最初から難解さを目的とした詩は好きである」と、加藤郁乎の詩にもふれる。


       評者・荒川洋治 毎日新聞「今週の本棚」9月29日朝刊

 それぞれ痛いところをついている。

「他人の時間を耕す」ぐらいならやめてしまえ、か。そしたら、日本の勤労人口の八割が失業するぜ。ただ、二十代のセリフだからなあ。いや、寺山なら四十代の晩年になっても同じことを言うかもしれない。痛いところではある。

 「最初から難解さを目的とした詩は好きである」。いかしたセリフだ。大島渚は若い頃、「映画はわかりやすくなければ、なんて言うバカは許せない」との趣旨の啖呵を切っていた。

「社会的に有効なもの」への嫌悪。「ゾクブツ」は、とうに死語になってしまった。