藤野可織、無神経かつ繊細な人間たちの魅力

 芥川賞を受賞した「爪と目」(藤野可織、新潮社)を読む。


 女性特有の生理的感覚をテーマにした小説。若い女性小説家にとって、特権的題材であり、ある意味で、それゆえに安易でもあり、一発だけならともかく、このテーマを基盤に持続的に高いレベルで作品を生み出していくことは難しい。


「爪と目」は、いくつか難点はあったが、面白かった。題材の新しさはないが、表現では定型への抗いがある。文字にしにくいヌルヌルした生理的な感触を言語化しようとする強い意志を感じた。


 たとえば、「死体のまぶた」の描写は記憶に残った。

 父は、死んだあとの妻のまぶたをおぼえていた。まぶたはおおむね閉じていた。下睫毛とのあいだのわずかな隙間に、おそらくは白眼が覗いていたはずだが、記憶には残らなかった。それよりも、死んで間もないのにまぶたの肉が痩せたことが印象的だった。これまで皮一枚と思われたまぶたにも脂肪や筋肉が詰まっていたことを父は知った。痩せおとろえたまぶた越しに、隠された眼球のかたちがはっきりとわかった。水分を失った眼球は、型くずれしはじめていた。ほんとうならただ丸く膨らんでいるはずのまぶたは、膨らみの最頂部でぽこんと小さく凹んでいた。

 対人関係の不感症と身体的感覚の過敏症とのよじれた共存を、深刻ぶらずに淡々と表現する筆力がある。ただ、非現実と現実とのかき分けが混乱している印象を受けた。非現実を、あるいは現実の曖昧さを強調するためにも、「現実部分」はきっちりと現実的に書き込む必要がある。その点で現実描写に甘さが残り、その分、非現実の圧力を減じさせていた。

 
 他の作品も読んでみた。

 「パトロネ」では、公園の池で手を叩いて鯉を呼び、こちらに向けてパクパクあてた無数の鯉の口に砂を餌代りに投げ込む場面が面白かった。この作品でも、意思疎通を欠いた人間関係が通奏低音になっている。他者への無神経さと自己の繊細さの入り混じりぶりが不気味だった。
 

 
 どの鯉も大きくて太っている。反り橋のてっぺんから見下ろして手を叩くと、真っ白いの、白に赤や黒の斑のあるの、真っ黒いの、金色のが無数に入り乱れてぶつかり合いながら、ぬるぬるした深緑色の水を割って顔を出す。私の真下はぽっかりと開いた口でいっぱいになる。


 鯉たちは狂喜し、いつも以上に密にかたまっていっせいに口を大きく開けた。水が干上がって、その後に痙攣する管がびっしりとあらわれたみたいだった。


 仏教における地獄は何種類もあると聞いたことがある。犯した罪によって落ちるところが違うのだという。あの口のそれぞれが、別々の地獄へ通じる通路のようにも見える。

 
皮膚科の待合室にいる人々が、臓器そのものに思えてくる場面も、ちょっとグッときた。

 紙や服のこすれあう音の合間に、正体不明の雑多な音が飛び交っている。私は耳で吸い上げるようにして聞く。おそらくそれは内臓の稼働する音だ。吸う息の生ぬるさに、ここに会している知らないひとびとの肺を想像しないではいられない。この想像もまた、不快ではなかった。
…ここは、ひとりひとりの体にひしめきあう臓器でごったがえしているのだ。

昔、開高健が、通行人の群を「赤い液体入りの肉袋たち」(正確な記憶ではない)のように表現していたような気がする。


 個人的には、鈍感な中年主婦が、地方美術館にいる小さな悪魔を捕まえて殺してしまう「いけにえ」が一番、気に入った。「爪と目」では難点だった日常の現実描写がきちんとしており、それだけに主婦の悪魔刈りという話の不条理さが迫ってきた。


 かおりちゃん、今後も注目していきたい。