「風立ちぬ」とタナトス

「避暑地での病弱な金持ち美少女との恋」。この題材だけで、少年時より読む気がまったく起きなかったが、先日、宮崎駿の映画を観たこともあり、「風立ちぬ」(堀辰雄)を読んでみた。

  私達が二人きりになった時、私は彼女に近づいて、からかうように耳打ちした。
 「お前は今日はなんだか見知らない薔薇色の少女みたいだよ」
 「知らないわ」彼女はまるで小娘のように顔を隠した。

 じぇじぇじぇ、ぎぇぎぇぎぇ。「趣味の読書」なら完読不可能だが、研究的姿勢を保持することでなんとか読み終えた。今日は、この作品の決めゼリフ「生きめやも」が実は「死への親和性」を持っているとの指摘を紹介したい。

 堀辰雄が「風立ちぬ」を執筆しているさなかに盧溝橋事件が起こり、日中戦争が始まった。だが物語の中に軍靴の音は聞こえてこない。作家は現実に背を向け、亡き婚約者の姿を小説の中によみがえらせることに没頭していたかにみえる。はたしてそうなのだろうか。


 「風立ちぬ、いざ生きめやも」


 フランスの詩人ヴァレリーの詩の一節をこう翻訳し、小説の巻頭に掲げた堀。しばしば「生きねばならない」と現代語訳され、「風立ちぬ」を「婚約者の死を乗り越えて生きる決心をする物語」と解釈させてきたこの文言は謎をはらんでいる。


 天理大学の渡部麻美氏が意外なことを教えてくれた。「『生きめやも』は万葉集の時代の語法で、反語表現です。だから『生きようか、いや生きようとはしまい』と解すべきなのです」

 (主人公の私は)新しい生に向けて雄々しく立ち上がるのではない。生きることへの執着を手放すのである。


 「風立ちぬ」を感傷的な小説と考えるのは現代の私たちの曲解である。太平洋戦争で出征する多くの若い兵士が、この本を携えていったことはよく知られている。生の賛歌ではない。死にゆく者の心に寄り添い、救いを与える力がこの本にはあった。


                         日経新聞9月1日付け、千葉達矢


 宮崎駿も「生きめやも」を「生きねば」と理解していた。しかし、実際は「死への決意」だったとの意表を突いた指摘だ。

 ちなみに、ヴァレリーのフランス語原文は以下の通り。

 Le vent se lève, il faut tenter de vivre.

 フランス語は理解できないが、「生きねばならない」と書いてあるような気がするが、どうだろうか。


  ただ、日経評者が指摘するように、作品全体からは「恋人の死を乗り越えて生きていこう」という積極的な生への意思はまったく感じられない。


風立ちぬ、生きめやも」と主人公がつぶやく有名な場面は、恋人が描きかけていた絵が画架と一緒に風で倒された時のものだ。元に戻そうと駆け寄ろうする恋人を主人公は無理に引き止める。病弱な恋人にとって絵を描くことは、ささやかな生きがいでもあることを考えると、ここから「生への意欲」はまったく立ち昇ってこない。むしろ死に抗わず、死を受容する姿勢が暗示されている。


 作品の最後はこうだ。

 風のために枯れ切った木の枝と枝とが触れ合っているのだろう。又、どうかするとそんな風の余りらしいものが、私の足もとでも二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら移している…。

 枯れ木、落葉、弱い音…どれも「陽」よりも「陰」に近い。タナトスの気配。