「風立ちぬ」、有能で倫理的人物の倫理的課題

 宮崎駿の映画「風立ちぬ」を観た。


 映画の主人公は、ゼロ戦の設計者として有名な堀越二郎がモデルになっている。風船子ら昭和30年前後生まれは、「戦争を知らない子供たち」だが、結構、太平洋戦争には詳しい。もちろん堀越は有名人だ。なぜなら、当時の「少年マガジン」、「少年サンデー」は、「紫電改のタカ」などの戦争マンガだけでなく、太平洋戦争時の戦記モノ特集(今、思うと、ほとんど対米戦争が中心で、中国戦線やビルマ戦線をテーマにしたものはほとんどなかった気がする)を頻繁に掲載していたからだ。ゼロ戦と隼の尾翼の違いを図解したページは、今でも記憶している。おそらく編集者に軍経験者が多かったせいなのかもしれない。


 さて、映画を観る前に、「零式戦闘機」(吉村昭)を買って読んでみた。吉村昭は、数年前に「陸奥沈没」、「戦艦武蔵」などをまとめて読みして、その「まっとうさ」に心打たれたが、ゼロ戦モノは読み落としていた。やはり、脳天気なゼロ戦讃歌ではなく、設計者からみたまっとうな日本の戦闘機史であり、得るところ大だった。ゼロ戦の母体となる新型戦闘機の試作機を、工場から飛行場までの道が悪路でトラックが使えず、牛車で工場から飛行場に運ぶ冒頭場面は、当時の日本の限界を現わすエピソードとして印象深かった。このエピソードは「風立ちぬ」でも使われていた。ゼロ戦の「ゼロ」は、皇紀2600年の下二けただったとは…これは知らなかった。


 そして、映画「風立ちぬ」を観た。失望覚悟だったが、途中で不覚にも涙腺が崩壊しそうになった。あの戦争が我々に何を強いたのかを考えさせる佳作だと思う。

 ただの「お涙頂戴」で終わらせないために、この作品が提示している課題をひとつあげてみる。

 有能で倫理的な人が、その職業倫理をまっとうして職務を果たす。これはもちろん正しいあり方だが、その職務の対象が、殺人の道具である兵器製造業務であった場合は、倫理的には正しいのかどうか。古典的な問題設定ではある。この課題について主人公は気がついてはいるが、それほど深刻には悩んでいない。組織的忠誠が最優先される、この国では、いかなる状況でも、職務を果たすことが倫理の根幹をなす、ということか。「全体主義への道は善人が舗装する」という言葉を思い出した。


  「中央公論9月号」で、鈴木敏夫スタジオジブリ代表取締役)が、「宮崎駿は戦闘機が大好きで、戦争が大嫌い。その人が戦闘機を題材に映画をつくったら、どんな映画をつくるだろうって。これはやっぱりみせものとして面白いですよ。見たかったんです。どういう運命があろうと、自分に与えられたある能力で自分のやれることをやるしかない。その考えはすごくわかりますね」と話している。ふーん、すごくわかってしまったわけだ。

 
 ちなみに、空中戦といえば、「スカイ・クロラ」(森博嗣)を思い出した。この作品は、組織的殺人である戦争倫理をアクロバッティックに逆手にとって、空中戦の魅力を純化していた。「空を飛ぶことの魅力」と「地上の日常生活への嫌悪」との合わせ技も見事だった。押井守が監督した映画もよかったが、恋愛の調味料が濃すぎた。原作の小説の方が空中戦の魔力について焦点が絞られており、インパクトがあった。

 過去記事アドレスは以下の通り。

http://blogs.yahoo.co.jp/soko821/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%BF%B9%C7%EE%BB%CC&sk=1

 「風立ちぬ」に戻れれば、だれかが吉本隆明の「対幻想」と「共同幻想」を使って、この映画を説明していた。少しだけ納得した。「やぼでない反戦映画」というのは、なかなか難しい。