あのYさんとバッタリ

 近所の書店にある雑誌コーナー。隣の男性が雑誌を元の棚に戻そうとしていた。その雑誌は「文学界」だった。この本屋には週に1回は立ち寄っているが、「文学界」を立ち読みしている人を見たことがない。どんな人だろうとそっと横顔を見てみると…あっ、脚本家の山田太一さんじゃないか。小柄でやせ形。写真よりも老けた感じはしたが、隣の駅に住んでいると聞いたことがあるので、ご本人に間違いないと思う。店内にいた妻に知らせようと離れた間に、ご本人の姿は煙のように消えていた。さっきの雑誌コーナーに戻ると、「文学界」のすぐ近くに、「総特集 山田太一」と題した雑誌があり、表紙には若き頃の山田氏の写真が大きく載っていた。さては立ち読みの狙いはこっちにあったのかな、と邪推した。


 本屋に行く直前、先日買っていたこの「総特集」をパラパラめくり、山田洋次さんに間違えられるエピソードが盛り込まれたご本人のエッセイを拾い読みしたばかりだったので、よけい、この邂逅に驚いた。


 実は、山田さんとは以前、一度だけ話を聞いたことがある。当時住んでいたロンドンで、山田さんの原作を舞台化した「日本の面影」が上演されることになったので、仕事の関係で自宅に国際電話を入れた。その時、小説の話になり、山田さんは、「イギリス現代文学が好きで、『碾臼 The Millstone』(マーガレット・ドラブル)はいいですよ」と話してくれた。さっそく買って読んでみた。シングルマザーとして生きる覚悟を決めていく知的な女性の物語で、等身大だが俗に流れない作品だったと記憶している。


 遭遇直前に読んだエッセイの最後の部分から引用して、本日は店仕舞です。今年四月一日に書かれたものです。

 「気ばらしだよ。こうなりゃあ、あとは気ばらしでいいんだ」といっているかどうかは知らないが、ドラマの多くは「本当」から背を向けたがっているように見える。


 ハハ、いつの間にか、えらそうなことをいいかけている。


 「今更、なにを用心してるんだ」という人がいるかもしれない。「老人なんだ。どんどん説教しろよ。なに気取ってるんだ」と。


 用心ではない。謙虚を演じようというのでもない。人をリードするようなことが、言えないのだ。確信がないのだ。こういう文章だとつい「もっともらしいこと」に近づきすぎて「オットット」と身を引いてしまうのだ。なにか欠陥があるのかもしれない。


 あえていえば、時代の流れが激しく太くなった時には、とるに足りないものになって行く小さな本当、小さな矛盾、小さな誤解、小さな深淵、小さな善悪、小さな夢、小さな物語は、まだ日本では書く余地があると思うから(ないのかな?)、急いで未来に適応しないで、アナクロニズムを生きるのも積極的なことなのではないか、などと思っている。

「小さな深淵」か。