先日礼賛した山村修さんの本をまだ読み続けている。6冊目になった。
山村さんは、小生にとって「勤め人通勤読書派」の偉大な師である。もちろん面識はない。山村さんの存在を知った時は、すでに故人だった。本を通してだけの師弟関係。それで十分だ。
山村さんの著書で、山村夫人が近所の奥さんに「おたくの御主人、昨夜、近くの駅のホームで本を読んでおられましたよ」と目撃情報が寄せられたエピソードが紹介されていた。小生も時々、区切りがよいところまで読もうと、帰路、自宅近くの駅の改札わきにある明るい電灯の下で、手すりに体を預けて電車での読書を続けることがある。
読みの深さ、広さは「師」と比べるべくもないが、「ああ、同じ人種だ」とうれしくなった。
読書の幸福。山村さんが、ローガン・ピーアソール・スミスというアメリカ生まれの詩人の作品を紹介していた。
作品の主人公は、何かに打ちひしがれて地下鉄に乗っている。立ち直ろうとして人間の喜びについて考える。酒、食べ物、友情、愛…だめだ。地下鉄は駅に到着する。エレベーターで地上にのぼっていかなくては。でも、ほんとうに地上の世界に戻る価値があるのだろうか。主人公は自問する。
だが突然、私は読書のことを考えた。読書がもたらしてくれる、あの微妙・繊細な幸福のことを。それで充分だった。洗練された、罰せられざる悪徳、エゴイストで清澄な、しかも永続する陶酔があれば、それで充分だった。
このあと、山村さんは、こう書きます。
私も三十年間、勤め人生活をおくっていますが、生活者には、本などとまったくかかわりのないところで、さまざまな困難に打ちあたることがあります。この詩の主人公のように、うなだれて地下鉄に乗り込むことなど、めずらしくもないでしょう。生きている限り、当然のことです。
しかし、本がある。本好きはそれを救いとすることができます。なんでもいい、いま自分が一番読みたい本を読むのがいいのです。
「そうだ、本がある」と思って私がえらんだのは、高浜虚子の「俳句はかく解しかく味う」(岩波文庫)でした。一読し、目のさめるほど、世界がカッとひろがるのを感じました。それほどのショックと快感をたたえた一冊でした。
こうした読書は、断じて現実逃避ではない。日常生活と直接関連のない読書は、自身の視野狭窄に気づかせてくれる。あるいは、「私もまた他人だ」と気づかせてくれる。つまりは、現実の深さ、広さ、奇怪さに気づかせてくれる。
虚子か。あす本屋でさがしてみよう。