藤田省三の「三位一体」論

エスは「神の子」か「人の子」かの論争の続き。これは、三位一体論争と深いつながりがある。三位一体とは、「父なる神」、「神の子イエス」、「聖霊」の三者を一体とするキリスト教の正統教義。今日は、聖書学者ではなく、日本政治思想史の藤田省三による三位一体論を紹介したい。出典は、「異端論断章」(藤田省三著作集10、みすず書房)。


 アレキサンドリアを拠点としていたアリウスは、イエスはあくまで「人の子」であるとして、その神性を否定した。


アリウスは、「父と子」との関係について、「子」は子である以上「生まれたもの」であり、「生まれたもの」である限り、その存在には「始点」があり、その存在に「始まり」があるものは論理上必然に「非存在」であった時があることを意味し、したがってそれは「永遠」なる神と同一ではありえない。

藤田は、これを「見事な論理的突き詰め」(藤田)と評価する。しかし、一方で、ローマ帝国の迫害(外的危機)を受けながら、信徒集団を存続させるには、信徒各個人とイエス、そして個別的教会とを精神的に結合する必要があった。ここに「三位一体」の基盤ができた。その後、ローマ帝国によるキリスト教公認で、その結合は弛緩し、異端の発生と呪儀(マギー)の復活の兆し(内的危機)があった。

これを受け、藤田はこう結論する。

 三位一体がなければ、教会は父なる神との連続性を喪って、この世の人間イエスを教祖とする唯の世俗的集団となるか、信徒のだれかが「神」と自己を同一化することを許すか、あるいは教会に宿る「霊」が「聖霊」である保証を失うことによって、呪術的精霊との区別がなくなる。


「三位一体」とは、ただ狂信的な妄想家が信じ込んだにすぎない「非合理的」教説なのではなくて、「マギーからの解放」を敢行して「物神崇拝」を打破した超越的普遍宗教が、自己をポジティブな形で社会的に定着させ(「受肉」)、復古的反動と人間の自然的堕落から自らの精神的存在を守り抜くために、不可欠な教義だったのである。

 藤田が「三位一体」を擁護するのは意外な気もしたが、「普遍」派としての藤田らしい論理でもある。


 他のキリスト教関連書籍もパラパラめくっていたら、こういうものもあった。

  イエスが神の子であることは、初めから抽象的に完成しているのではない。十字架の苦難にきわまったその生涯全体の終わりから、「本当の神の子」になるのである。殺されてこそ神の子、これに勝る背理はない。この福音書は読者たちの常識的な「神の子」理解、すなわち、「神の子」に不可能はなく、まして殺されることなどありえないという見方を引き裂こうとしている。


「聖書の読み方」(大貫隆岩波新書

エスは他者のためには大いに力を振るっているが、自分のためにはただの一度も力を振るったことがない。


 (十字架にはり付けになったイエスは、律法学士などから、「他人を救ったのに、自分自身を救えないのか」と侮辱されるが)、イエスは十字架から降りることができなかった。それどころか、イエスの無力さは「私の神よ、どうして私を見捨てられたのか」と、ほとんど絶望の叫びにまでいたっている。弟子たちはみな逃亡し、神にまで見捨てられたのではないかという怖れのうちで、イエスは弱さの極限において果てたのである。


 これこそが、イエスが示した「神」の意味ではあるまいか。

    「ヨーロッパ思想入門」(岩田靖夫、岩波ジュニア新書)

 岩田は、一見、人間的にみえる「弱さ」や「無力さ」こそが「神の意味」だと説く。ここまで自己防衛を放棄して他者のために生きることは通常の人間にはできないからだ。「神の子」か「人の子」か。単純な二分論で考えると、キリスト教の本質が見えなくなるとの指摘だ。


 クリスマス。キリスト教を考えるには、よい機会だ。