日常に踏みとどまる英国文化

 英文学者の小野寺健さんが、新聞に英国文化の特質について書いていた。ある意味で言い古された英国論だが、英国論それ自体が、英国風の文体になっていて、しみじみとした説得力を感じた。


 まずは、ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」の感想から。

 この無愛想な題の小説は、その辛辣なユーモアが醸し出す雰囲気に魅せられて一気に読めたが、これも日常的な人間関係を描いているにとどまる「おだやかな」物語で、身を切られるような孤独感とか、天に舞い上がるような陶酔感といった、若いものがもとめる直截な激しさは拒否していた。


 英国には、ベートーベンもフルトヴェングラーもいないのである。それが強みなのだとは!


「あえて日常性のレベルに踏みとどまるのが英国文化の急所」と、小野寺さんが本当に納得したのは、60代になってジョージ・エリオットとE.M.フォスターの二人の作家を再読したときだったという。

そのきっかけとなったのが、エリオットの「フロス河畔の水車場」の一節だった。

 この兄妹は、自分たちの人生が大きく変わることがあろうなどとは、夢にも考えていなかった。…いつまでも休日のような日がつづくのだ。二人はいつまでもいっしょで、…水車はいつまでもがたん、ごとんと回り続けている」


 この短い一節に何回、「いつまでも」という言葉が現れることか。これが英国文化の保守主義の精髄なのだと、わたしは思った。

 
 経験済みのものでなければ容易に信用しない用心深さ。一週間をいろいろな仕事に割りふって、飽きずに住居の保守にはげむ地味な勤勉さ。質素な食事と、何年も着古した洋服。こういう人生は静かで、継続の感覚を秘めたものになるだろう。

 一方、フォスターは、「英国文化はゆっくり、のんびり、だらだらと発展してきた」との言葉を残している。


 フォスターは、怠けたがる人間の本性も犠牲にせず、「無理をせずに」創られた英国の文化を称えるのだ。それは人間の限界を知って地上の生活を大切にし、天に舞い上がろうとしない二流の文化かも知れない。だが、天をめざす人間は落下する。落下しないためには、舞い上がろうとせず、単調な人生に楽しみを見いだせる創造的な感性が必要なのだ。だからそういう平凡な人生にドラマを見つけるオースティンの小説を愛した。


 しかし、「日常性」だけがすべてではない。小野寺さんは、エッセイの最後をこう結んでいる。

 
 (平凡の重要性を評価した)ファースターは、人生には時として天国を垣間見る奇跡の瞬間もあって、それを経験できない人生は完全とは言えないとつけくわえることを忘れない。


「英国を読む」小野寺健、120701付け日経朝刊


 相手を全否定しない。自己を全肯定しない。これも、地に足をつけた英国文化の重要な核というわけだ。