ロンドン暗転、05年夏

 2005年7月6日、ロンドンは、パリを破ってのオリンピック開催地当選決定に沸き立ち、トラファルガー広場歓喜の大群衆で埋まった。しかし、翌7日朝、ロンドンの地下鉄で「オリンピック決定!」の大見出しが躍る朝刊を通勤客が読んでいる時刻に、今度はロンドンを大きな悲劇が襲った。走行中の地下鉄とバスの4か所でほぼ同時に爆弾がさく裂、50人以上が死亡したテロ事件が発生した。

 発生時、G8見物のためにエディンバラにいた。テレビで一報を知り、すぐに飛行機でロンドンに戻った。ヒースロー空港から電車でロンドン中心部のパディントン駅につく。事件発生から3時間余りが経過していた。

 バスも地下鉄も止まり、タクシーも気の遠くなるような長蛇の列ができていた。スーツケースをゴロゴロ引きずり、歩き出した。目抜き通りのオックスフォード・ストリートは、徒歩で帰宅する人たちでいっぱいだった。
  互いに視線を合わせず、足早に歩く、いつもの英国人流だ。知人と談笑している人もいる。緊張した雰囲気はない。たくさんの警官の姿さえなければ、「今日は何のお祭り?」と聞きたくなるほどだ。
 
 バスの爆破現場近くには、立ち入り禁止のロープがはられていた。すぐそばのカフェは営業中で結構繁盛していた。
 
 これ以降、メディアでは「いつものように」が合言葉になった。事件3日後の第2次大戦祝勝パレードも予定通り行われ、週末の歓楽街もにぎやかだった。週明けからはラッシュも戻り、株価も回復した。「自粛はテロへの屈服」との共通認識があり、「非常時こそ平常であれ」というロンドンっ子の気概を感じた。ラジオ司会者ロバート・エルムズは、新聞の寄稿で、「集団ヒステリーのように一致団結するのはロンドンっ子の性に合わない。小さな田舎町じゃあるまいし」と書いていた。

 事件現場近くの地下鉄の駅には、市民が持参した追悼の花束であふれていた。発生翌日に置かれた花束のひとつにカードが1枚添えられていた。

 「昨日、我々は逃げた。しかし今日、より強くなって戻ってきた。テロリストよ、思い知れ。お前たちは、間違った標的を選んだのだ」

 ロンドンはこんなタフな街だったのかと見なおした。

 
 しかし、2週間後、再びテロ事件が起きた。こちらは脅かしに近く死傷者はなかったが、市民に与えた心理的な打撃は大きかった。

 テロ事件の犯人の多くがイスラム教徒のパキスタン系移民だったせいもあり、地下鉄では、2度目の事件以降、荷物を持った南アジア系乗客が敬遠され、周囲に空席が目立つようになった。乗車した後で、車両に南アジア系乗客がいると、再び降車する人さえいた。ロンドンでは市民の約3割が非白人といわれる。いやな緊張感が街中に広がっていた。
 
 地下鉄の乗客数が週末にはいつもの30%も減少、自転車通勤者が急増し、自転車の売り上げが3倍になったといわれた。
 イスラム教徒への嫌がらせも急増した。7日のテロ以来の一か月で、ロンドンでの宗教的憎悪に関連した犯罪は269件で、前年同期比で約6・5倍になった。
 
 BBC放送は、イスラム系市民の間には、車内で「不審者」と疑われないため、「経済紙を読む」、「勤務先のIDカードを身につける」などの予防策がひろがり、なかには、飲酒を禁じるイスラム教への無関心さを示すため、わざわざ車内にワインのボトルを持参するとの奇策を実行する人もいると報じていた。

  あれから7年。オリンピックを間近に控えたロンドンは、あの後遺症を完全に克服したのだろうか。


  ※写真は、事件当日のロンドン市内。大通りに車はなく、新聞スタンドには「テロ事件発生、死亡多数」の貼り紙が。直後の新聞は、「ロンドン、なんという一週間」という見出しで、オリンピック開催決定の歓喜から翌日のテロ事件への暗転を報じた。