「退く」ことの品位とは

 英国シリーズの続きを書きたいが、調べ直すことが必要で、なかなか二回目がまとまらない。こんなときは、「各紙書評乱れ読み」という本ブログのささやかな得意技を披露して、時を稼ぐ。

今回は、7月1日付け朝刊の朝日新聞書評から。

 あまりにも生々しく、時に本を閉じた。歴史の専門書を読んで、そういう気持になることはほとんど無い。

 秀吉の出自は何か。これも被差別民という説と農民という説があるが、それは単なる概念だ。秀吉がまるで猿のように栗を食ったという記録から、それが乞食として生きていた時の大道芸ではなかったかと著者は推測する。秀吉が身体をもった人間として迫ってくる。


 「河原ノ者・非人・秀吉」(服部英雄、山川出版社)〜評者は田中優子

 時代からしずかに身を退く美術家、独立独歩を貫く作家の仕事のほうへ案内する、そんな構成になっている。

 のほほんとした語り口で、骨太の主張をしている。「『ついていく』だの『取り残される』だのは、さっさと卒業することです」
 熊谷守一池田龍雄、早川俊二、谷川晃一ら、ちょっと地味な作家にこと寄せた、著者の矜持が浮かび上がってくる。身の丈、落ち着き、思慮深さ、待つこと、削ぎ落とすことといった、人の<品位>とでも言うべきものだ。この退きのなかにこそ「感覚をとぎすます道場」があると言わんばかりに。


 「時の余白に」(芥川喜好、みすず書房)〜評者は鷲田清一

 「A3」で森達也は、麻原を免罪しているのではない。麻原に罪を還元することで、オウムを他者化してしまうことを恐れるのだ。オウムは日本社会の戯画である。だから、我々は「あの事件」から目を背ける。

 
 オウムの全体像を見通すには島田裕己「オウムーなぜ宗教はテロリズムを生んだのか」が適している。島田が言うように、オウム事件は日本社会に行きな荒、社会の在り方に違和感を持つ人間の無意識の願望を象徴するものだった。
事件当時、宮台真司は「終わりなき日常を考えろ」で、ハルマゲドンのような大きな変革など、もうやってこない。大切なのは永遠に輝きを失った世界の中で、パッとしない自己を抱えながら、腐らずにまったりと生きていくスキルである。輝かしい未来への幻想を捨て、終わりなき日常を戯れながら生きる知恵こそが必要とされる、とポストオウム時代の指針を説いた。


 「一から読むオウム」〜評者は中島岳志