「吉本隆明=無教会派祭司」説

 橋爪大三郎による、吉本隆明は左翼の世界での「無教会派祭司」との指摘。ホッブズの説明は面白かった。

 全共闘に集まった学生は、日本共産党にも新左翼セクトにも懐疑的で、得体のしれない前衛に「召喚」されたくないと思っていた。(前衛の言うことを聞かなくてよいとの)吉本氏のはたらきは「無教会派の祭司」だったのだ。


 こうした転換を、思想史のなかに探るなら、ホッブズの「リヴァイアサン」に思い当たる。ホッブズがここで証明しようとしたのは、地上に「普遍的教会」が存在しないことだった。カトリック教会は当時、人々の救済を保証する「普遍的教会」と称していた。これに対してホッブズは、プロテスタント神学を駆使して論争する。


 「救済する/しない」は神の権限で、人間(の集まりである教会)は手が出せない。だから「普遍的教会」は存在できない。ゆえに、救済の日まで人々の地上の生活に責任を持つ、主権国家が必要になる。「契約」がそれを生みだす、というのがホッブズの独創的な主張だった。近代の出発点である。

 なるほど。ここらあたりのキリスト教にからめての説明のうまさは、「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)に存分に発揮されている。これは今週、通勤電車の中でほぼ完読した。キリスト教に関する重要な論点が満載で、「うのみ」にするのではなく、キリスト教を考える際に非常に「使える」本といえる。


 橋本は、ホッブズから一気に20世紀の冷戦時代に飛ぶ。

 
 冷戦の本質は「普遍的教会」が存在するかをめぐる対立だった。


 ソ連はプロレタリア国際主義を掲げ、世界が統合されるべきだとした。アメリカなど自由主義陣営は、いくつもの主権国家と単一の市場経済が存在すべきだとした。共産党は、姿を変えたカトリック教会で、日本の新左翼各派はプロテスタント諸派にあたる。


 これに対し、一切の教会は存在すべきでないとした吉本隆明氏は、無教会派にあたる役割を果たした。


 「普遍的教会」に抗した自由主義世界に対する吉本氏の態度は、両義的となった。市場経済に対しては肯定的、主権国家に対しては否定的だからだ。ところが自由主義世界は、市場経済主権国家をセットにしたもので、両者は不可分の関係にある。


 吉本氏とホッブズを対比してみよう。ホッブズは、自然状態をめいめいが争う「よくないもの」と想定した。その自然状態を克服するために、権力(主権国家)が要請される。

 一方、吉本氏は、権力(主権国家)のない自然状態を「よいもの」と想定する。「普遍的教会」を否定するところは同じでも、その帰結は異なるのである。



中央公論」2012年5月号
 


 ちょっと単純化しすぎているが、思考の整理には便利かも。