孟子と兄嫁

朱子学の勉強会で、講師が「孟子」の「離婁章句」に言及した。この部分の要約は以下の通り。

 弟子が孟子に尋ねた。


 「男女間では直接手渡しするのは礼に違反するが、兄嫁がおぼれている時にも手を握って助けてはいけないのでしょうか」


 孟子先生の答えは「礼に反するからといって、兄嫁を助けなければ山犬と同じ。これは礼の本体ではないが、臨機応変の措置として間違いではない。これを権という」というもの。


 弟子は続けて、「それでは今は天下が乱れ溺れかかっていますが、なぜ先生は(頭をさげてでも誰かに仕えて)人々を助けようとしないのですか」と尋ねた。


 孟子先生は、「溺れる兄嫁を助けるには手(緊急の例外的措置)を使うが、天下を救うには道(普遍的な真理)に従わなければならない」と答えた。

 コウシいわく、「この時代から、兄嫁と弟は一番問題が起きやすい間柄だったので、ここであえて例に出されているのです」。なるほど。さすが、中国、紀元前から日活ロマンポルノを先取りしている。古代から社会の成熟度が違う。


 さらにコウシいわく、「男女関係に無関心な論語にも、孔子にまつわるスキャンダルめいた箇所がひとつだけ「雍也」にあります」。

以下の紹介は、論語関連の他人さまのブログから拝借しました。

[書き下し文]子、南子(なんし)を見る。子路(しろ)説ばず(よろこばず)。夫子(ふうし)これに矢いて(ちかいて)曰く、予(われ)、否む(こばむ)ところのものは、天これを厭てん(すてん)、天これを厭てん。

[口語訳]先生が南子に会われた。弟子の子路はこれを不満に思った。その為、孔子子路に誓約して言われた。『私にもし間違いがあったならば、天が私に罰を与えるであろう、天が私に罰を与えるであろう。


[解説]南子は衛の霊公の夫人で、美麗な容姿を持ち好色であったことで知られる女性だが、孔子は南子からの相次ぐ謁見の要請を断りきれなかった。一説には、美貌を誇る南子が孔子を性的に誘惑して、孔子はその魅力的な誘いを拒みきれなかったという話があるが、それが事実であるか否かは分からない。恐らくは、そういった孔子のスキャンダルが衛国や周辺国に噂話のように流布してしまったのだろうが、それを知った男女関係に厳しい子路が不快に思って、孔子に詰め寄ったのである。孔子はこういった噂話のスキャンダルが事実無根であることを主張し、もし自分にやましいところがあれば天が神罰を下すであろうと誓約したのである。孔子の恋愛話や男女関係を匂わせる論語の章句はこの部分しかないが、こういった孔子の噂話的なスキャンダルを敢えて掲載していることを面白く感じる。


 読書会では、儒教下ネタ研究ばかりしているわけではありません。上記の「兄嫁」の箇所での思想史上の注目ポイントは、「道」と「権」の関係です。「権」は、天秤ハカリに使う重りが原義で、モノの重さを計るために左右に動かします。ここから、「状況に応じて変化するもの」に転化しました。たとえば、「権現」といえば、仏さんが変身した姿です。権謀術数の「権」も同じです。
儒教では、「道」は普遍的な真理ですが、それは絶対的ではなく、時には「権」(状況に応じた適切な対応)の必要性も認めている、というのが、ここの眼目です。ここから儒教的現実主義が生まれ、それは常に「道」との緊張関係を伴い、さまざまな政治思想の潮流を生むことになり、それが日本の政治思想史へも影響をあたえていく…という真面目なお話になるのであります。


孟子」の「離婁章句」には、こんなのもありました。

「人の患(うれ)いは、好みて人の師と為るにあり」。


拙訳
「人間ってやつは困ったもんで、すぐ調子にのって先生づらをしてしまう。やだね」