佐野洋子と雲古

4月1日にふさわしいのかどうか、本日は、ハイセツブツの話である。今、惚れている佐野洋子のエッセイを紹介したい。


冒頭から、すごい。

 父が初めて私に注目し、過大な期待と愛情をもつきっかけになったのは、ウンコだった。(これが冒頭の一文!風船子注)
「こいつは大人物になるぞ。とんでもねえ太い糞をしやがる」と云ったのである。


 虚弱児の兄は、年中、下痢をしていた。母親はこの兄に便所までついていき、「坊や、今日はピーピー?」と必ず尋ねていたという。

 私もピーピーのウンコをして同じ様に母を心配させたいと心底願ったが、生後一年、私は片手にゴボウの天ぷら、片手にアイスキャンディーを持ち、交互にたいらげて、しかもピーピーにならなかったのである。それは我が家の伝説になっていた。何故か母はその伝説に触れるとき、憎々しげに私を見、父は、いかにも頼もしげに私を見たのである。母と私の一生の確執の基は私のウンコにあったのである。


この後、毎日、ウンコで便器のなかに「あ」にはじまる五十音のひらがなを書く「たった一人の密室の芸術」に挑戦した話から、病気になり、匂いのないウンコを二年半以上排出し続けたエピソードなど、雲古のネタが続いていく。母との確執については、「シズコさん」を参照。これは、血縁的愛憎併存文学の最高峰といってよい。


さて、このエッセイの圧巻は、筆者が産み落とした不思議な形状の雲古に、友人が大いなる興味を示し、それを二人で割りばしとフォークで突っつき回す場面だ。

「わたし、卵産んじゃった」
「えっ、まさか流してないでしょうね」
「あんた見るの?」
「見る、見る」


私を押しのけて、友達は便所に言った。二人で便器の側にしゃがみ込んで、卵をじっと見た。卵の黄味くらいの大きさの、丸い黄色い風船の様なものがいくつも浮いているのだ。


「あんた、これ何?」
友達の顔は喜びに輝いていた。こいつ一体どういう奴なんだ。


「あんた、割りばし」
友達は命令した…


全編、始めから終りまで、ネタは自分のウンコだけ。日本文学史上、空前絶後のエッセイだ。タイトルは、「卵、産んじゃった」。初出の掲載誌は、なんと「婦人公論」だ。今なら、「佐野洋子、追悼総特集、100万回だってよみがえる」(河出書房新社)で読めます。


 性別還元論には基本的に反対だが、ここまでくると、やはり「オンナにはかなわんな」と思ってしまう。男が同じ題材に挑むと、単なる下品か、あるいは「インテリだがこんな話も書けるぞ」的な下劣にしかならない。


 男として、さわやかで、かつ決定的な敗北感を味わった。