「ぬぐ絵画」、担当学芸員に感服

「ぬぐ絵画」展(東京国立近代美術館)は、担当学芸員の「熱」が直接伝わってくるまれな展覧会だった。


 人間、それも女性の全裸の絵をずらりと壁に並べ、それを老若男女がお金を払って公の場でまじめな顔をして鑑賞する。考えてみたら、かなりおかしなことである。


 もちろんこの奇習は、欧州から日本に輸入されたものだ。「はだかの絵画」が日本に定着するまでの画家たちの苦闘を実際の作品を通じて明らかにしたのが、この展覧会だ。


第一章「はだかを作る」(黒田清輝たちの努力)、
第二章「はだかを壊す」(萬鉄五郎古賀春江熊谷守一などの「はだかの解体」)、
第三章「もう一度、はだかを作る」(安井曽太郎、小出猶重の「はだかの再構成」)の三部構成。


 総花的になりそうなテーマだが、「流れ」がつかめるように作品は絞り込まれている。キャプションの字も大きく、かつ、文章もわかりやすい。簡単なようだが、これだけ読みやすく書くには、相当苦しまなければならない。何かとしがらみが多い国立美術館で、明確なテーマ、それを伝える斬新な手法の両方を実現させている。しかも、図録もほとんど担当学芸員蔵屋美香氏)が独力で作り上げている。蔵屋氏の学芸員としての力技に大きな拍手をおくりたい。

 ただ、残念ながら、入場者が少なかった。あー、もったいない。あす15日まで。関心のある向きは竹橋にダッシュしてください。


 図録から蔵屋さん執筆の「はじめに」を紹介したい。この図録は、一般書籍としても販売予定なので、書店で見つけたら手にとってみてください。タイトルは「ぬぐ絵画―日本のヌード1880−1945」(発行・東京国立近代美術館)です。


(日本における「はだかの絵画」移入の歴史は)エロティックな連想を追い払うために採用された垂直に立つポーズと、それを解体し、あるいはエロティックなものを呼び込むために導入される水平に横たわるポーズとの、身体の縦横軸の交代劇である。

 参考までに、「智・感・情」と題された黒田の作品を図録から転載してみた。三つの裸体画が左から智・感・情を表しているという。全裸の女性が横になっていれば、当然、性的な連想を呼び起こす。そこで、まず直立させる。次に、女性のプロポーションは、明治の日本では考えられない八頭身だ。「日本人離れ」の体形も、「現実のオンナ」から距離をとる工夫といえる。黒田自身、「裸体画そのものは普通の肉体ではない、まったく『人間』以上のものなのです」と明快に語っている。

(ケネス・クラーク「ザ・ヌード」では)「naked」と「nude」という有名は二つの区分が登場する。「naked」とは、衣服を剥がれた状態の「丸くちぢこまった無防備な身体」のことである。これは時にあからさまな性的な関心を呼び起こすものだ。他方「nude」とは、「均整のとれた、すこやかな、自信に満ちた肉体、再構成された肉体のイメージ」、つまり、ヨーロッパの絵画にみられるような理想化され、普遍化された身体の造形物のことである。

 この展覧会では、「naked」と「nude」のちょうど中間にあって、両者の間を揺れ動く身体とその造形物を指すものとして、「はだか」という言葉を使っている。


 「naked」から性愛的要素をいかにして抜き去って「nude」に仕上げるか。西欧で発生したこの流れが、日本にも明治初期から始まり絵画史の一部を形成してきた。しかし、それは成功したのだろうか。裸体画の前で、われわれはまったく性的連想から無縁になったのだろうか。


 この問いに関し、蔵屋氏はこう答える。

 そもそも人間のはだかの身体を造形し、それを鑑賞することは、どんな時代、どんな文化にあっても、単に距離を置いて「見る」に止まらず、「触れたい」「抱きしめたい」という身体的な欲求を引き起こす力を有するのではないか、という視点をもっていたいと考える。

この姿勢に強く共感する。

 裸をめぐる絵画史は、裸から原初的な性的喚力を除去しようとしてきたが、裸体の絵画それ自体に性的な喚起力が内在している。むしろ、「除去不可能な喚起力」こそ絵画それ自体の力である。

 ゲイジュツという名の商品にしろ、プロパガンダにしろ、絵画は「使える手段」である。しかし、つねに「目的のための手段」の枠を超えてしまう「何か」をどんな絵も内蔵している。だからこそ、われわれは「他人の描いた絵」をあきずに見る。

 
面白い。