「論考」冒頭の存在論(1)

 今日が仕事始め。通勤電車に乗る日々がまた始まった。かばんには「論考」、野矢氏の案内書と一緒に「ウィトゲンシュタイン入門」(永井均ちくま新書)も放り込み、吊革にぶらさがりながら立ち読みする。仕事大丈夫か?


 本日、「論考」は冒頭の命題「1」から命題「2・063」までを読む。文庫本で6ページ余だが、ここは「世界とは何か」の存在論的大問題を次々と短い命題で断定的に語っていく。


 ここでのWによる世界の定義を並べてみる。

世界=「成立していることがらの総体」
    The world is all that is the case.
  =「事実の総体であり、ものの総体ではない」
The world is the totality of facts, not of things.
  =「論理空間の中にある諸事実」
The facts in logical space are the world.
  =「成立している事態の総体」
The totality of existing states of affairs is the world. 
  =「現実の全体」
The sum-total of reality is the world.


 理解のためには、「世界」、「論理空間」、「ことがら」、「事実」、「事態」などの語句の相互関係をまず把握する必要がある。

 ここで冒頭の一文「世界は成立していることがらの総体である」に関して、案内役の野矢先生の解説を聴こう。例によって要約引用です。


 「成立していることがら」とは、「私は三人兄弟の末っ子」であるといった現実の事実のことである。これに対し、「可能性はあったが、現実には成立しなかったこと」もある。例えば「私は宇宙飛行士であった」といったことである。Wが「世界は、成立していることがらの総体」と言うのは、「世界」をあくまで「現実世界」に限定して使っていることを意味する。想像の世界、単に思考されただけの世界はWにとっては「世界」ではない。


 一方で「想像の世界」も存在する。そこで、Wは、「現実世界」と「想像の世界=思考されただけの世界」の両方を含む「成立しうる事柄の総体」を「論理空間」と呼んでいる。


 この「論理空間 logical space」こそ、「論考」において最上級の重要概念である。なぜならば、「論考」の根本問題は「われわれの思考の限界」だった。われわれが考えられるすべてを含んだ「論理空間」の限界を確定すれば、それが「思考の限界」にもなるからだ。

 Wは、「論理空間」の限界をさぐる旅の出発点として、まず「成立していることがらの総体」としての現実世界を置く。「論考」が、徹底的に現実に立ちつつ可能性を捉えようとしている点は、強調しておくべきだ。


 Wの断定口調については、永井の解説をみてみる。

 Wは、世界は事実このようにできている、と独断的に主張しているのではない。そうではなく、およそ我々の言語が確定した意味を持ち、世界について何事かを語り得るためには、世界はこのようにできているのでなければならない、と主張しているのだ。「論考」は叙述の順序と逆に考えられている。言語が意味を持つためには、それはある一定の構造を持たねばならない。したがって、言語と世界は論理形式を共有しなければならない。


 この6ページは、これから始まる論証を前に結論のエッセンスを述べたようなものだ。この部分を理解するには、結局、全体を読んだ後にもう一度、ここに戻ってこなければならない。長居しても無駄かもしれないが、もうちょっとモグモグ噛んでみたいと思う。