「論理哲学論考」に再挑戦

 新年プロジェクトとして、ちょうど一年前に始めてすぐに挫折したウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」(以下、「論考」と略)に再挑戦することにする。また挫折したら、来年再々挑戦すればよい。


 今回は、まず自分で読んで自分なりの理解、疑問を整理したうえで、野矢などの参考文献にあたることにする。「素人」は自力を推進力にして思い切り誤読を楽しむしかない、と開き直る。

 使用するテキストは岩波文庫野矢茂樹訳)と英訳は「ROUTLEDGE & KEGAN PAUL」社刊(D.F.Pears & B.F.McGuinness訳)。また前回同様に「ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読む」(ちくま学芸文庫野矢茂樹)を併読して、その助けをかりる。

 初日は、「序」からスタート。

 まずウィトゲンシュタイン(以下、Wと略する)は「これは教科書ではない」と宣言する。つまり万人向けの啓蒙書ではないということだ。「理解してくれた一人の読者を喜ばし得たならば、目的は果たされたことになる」と続く。
 Wは、この書は「哲学の諸問題は、われわれの言語の論理に対する誤解から生じていること」を示しており、意義の要約を有名な決めゼリフで語る。

 
 およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。

 What can be said at all can be said clearly, and what cannot talk about we must pass over in silence.


 これは「論考」の最後にも反復される。
 
 ここでのキーワードは「明晰」だろう。通常、「明晰」を担保するのは論理である。論理と非論理の境界線を明確に引いて、論理の内側だけを「世界」と認定すれば、世界からナゾは消える。


 このことを、Wは、「本書は思考されたことの表現に対して限界を引く」と表現し、さらに「思考自体に限界を引くには、限界の両側を思考する必要があり、それは論理上、不可能。限界を引けるのは言語(表現)においてのみ」とする。そして「言語の限界の向こう側はただナンセンス」と断じる。

 この試みの哲学史的意味について、「私は(自分の主張の)新しさを言いたてようとはまったく思わない。…私の考えたことがすでに他の人によって考えられていたのかどうかなど、私には関心がないからである」という。
 と言いながら、哲学史全体に対して高らかに勝利宣言をする。

 
 本書に表された思想が真理であることは侵しがたく決定的であると思われる。それゆえ私は、問題はその本質において最終的に解決されたと考えている。


 The truth of the thoughts that are here communicated seems to me unassailable and definitive. I therefore believe myself to have found, on all essential points, the final solution of the problems.


 「助っ人」野矢先生の本をのぞいてみる。要約引用で御紹介する。

 
 あれだけ哲学者たちがおしゃべりに費やしてきた哲学の全問題群が、「論考」という小さな書物のひと突きで解かれ、消えていく。そんな「悟り」といった言葉を使いたくなるような地点に立ちえたことの、不敵な表明である。


「悟り」の仕掛けは、「論考」が思考の限界を画定しえたと信じたことのうちにある。

「論考」全体にかかわるもっとも基本的な問いは、「われわれはどれだけのことを考えられるのか」である。Wは結局、哲学の全問題が思考不可能なものでしかないとして、解答不能性によって解決、いや、解消しようとした。これが「論考」の筋書きだ。


 野矢は、ここで納得しない。「思考不可能なこと」でも、「思考不可能だ」と考えることはできるのではないか、と喰らいつく。


 野矢は「身も蓋もない言い方をするならば、この本(「論考」)はまちがいなのであると思っていた」と書く。ただ、今では「哲学問題のすべてが解決されたというのはさすがに嘘だけれど、「論考」の構図は基本的に正しい」と考えていると言う。

 
 思考不可能性にもどる。

「丸い三角形」は思考不可能な空虚な観念でしかない。「『丸い三角形』なんて無意味だ」という主張は、「丸い三角形」という日本語の表現についての主張である。かくして「限界は言語においてのみ引かれうる」との結論になる。
つまり、Wの基本的立場はこうなる。

思考可能性の限界を思考によって画定することはできない。しかし、言語の有意味性の限界ならば画定可能である。さらに、言語の限界は思考の限界と一致する。


 しかし、野矢は「有意味とナンセンスの境界を言語において画定せよ」との問いも、応答不能な問いではないか、と指摘する。

 われわれは何かを語るとき、論理に従う。論理は有意味に語るための条件である。それゆえ、論理それ自体について語ろうとすることには根本的におかしなところがある。つまり、論理は「語りえない」のである。論理は、われわれが論理に従いつつ、他の何ごとかを語るとき、、そこにおいて「示される」ものでしかない。


 以上の野矢の提示が、「論考」の消化酵素になるかどうか。「思考不可能性」の正体にどこまで迫れるか、このあたりがヘソになるのかもしれない。


 「論考」の序文は文庫でわずか2ページ半だが、全体を貫く大きな基本命題が濃密に小文に宿っている。


 ちなみに昨年同時期の「論考」挑戦初日の記事を再読してみた。物理的な素材は人体の新陳代謝でかなり入れ替わっているはずなのに、「変わりばえしねえなあ」と苦笑するしかない。

http://d.hatena.ne.jp/fusen55/20110104/1294146710