没落経由の再生とは

 あと6時間余で2011年が終わる。


 今年三月、南の郷里では父親が病気で逝き、北の海辺では万を超える人が津波にのまれた。三月は、大きな杭を腹に打たれたような日々だった。


 あの頃は、夜の通勤電車に携帯電話の地震警報が一斉に響くと、車内に緊張が走った。大都会に暮らす一千万人が同時に自分たちの「生き死に」の問題を体感していた。死生感覚の集団的共有は、戦時中の空襲以来ではないか。

 「3.11」がもたらした、あるいは、もたらす変化の全貌を我々はまだ知らない。2011年の意味が形をとってくるのは、まだこれからだ。


 ささやかなに個人的記憶をたどれば、「読む」体験としては、「はじめの穴 終わりの口」(井坂洋子幻戯書房)、「観る」体験としては、韓国映画「息もできない」が今年最大の収穫だった。ただブログを読み返してみると「劣化」を痛感する。後退戦には慣れているが、そこに「戦術性」が感じられない、単なる「劣化」だ。もとより「勝利」は目的ではない。「戦いとられた敗北」(ベンヤミン)を達成するため、老骨に鞭打ち、戦力、戦術の再構築をめざしたい。

 自力再生を実現する過程は「基礎に達する没落」を通ることである。ベンヤミンは言う。「自己を倒壊させることから始めた者こそが、自己の関心事を最もよく貫き通すのである」と。

 「精神史的考察」(藤田省三平凡社

 諸兄諸姉、よいお年を!