「天」とGODとの違いとは?

 おなじみ、朱子学読書会の講師、曰く

 儒教での「天」とは、キリスト教の神のように、全知全能の人格神ではない。モノを言わない。「天何をか言わん。四時行われ、百物生ず」(天は何も言わない。それでも四季はめぐり、万物は生じている。論語・陽貨第17)
 
 天は時に「寒い夏」になるなど完全ではないが、おおむね正しい。「完全」ではないので、キリスト教のように、「神がなぜ不完全なものを作ったのか」、「なぜ善人が苦しまなくてはならないのか」といった疑問は起きない。

 「儒教は宗教なのか?」との問いは、問い自体がおかしい。日本語でいう宗教はreligionの訳語であり、江戸時代までは「宗教」の概念がなかった。Religionはキリスト教をモデルにして成立した概念であり、「儒教は宗教か」との問いは、「儒教はどれだけキリスト教に似ているのか」の問いと同じ。日本人は、宗教のカテゴリーが西欧モデルであるとの自覚がない。


 儒教の側からキリスト教をみると、「キリスト教は人の道を説いている点はなかなかよろしいが、迷信など猥雑なものが混じっており、教えとしては不完全」となるだろう。


 これに対し、加地伸行はちょっと違う角度から「儒教=宗教」説を主張する。

 私は、「宗教とは、死ならびに、死後の説明者である」と定義する。中国では、漢民族の特性に適した死ならびに死後の説明に成功したのが儒教であり、道教である。私が言う儒教の宗教性とは、このような意味である。

 「儒教とは何か」(中公新書

 ここでの「死語の説明」とは、儒教の血縁重視、祖先崇拝が、自己を祖先や子孫からなる同一の「血脈」の部分として認識させ、その結果、「自己は死ぬとしても、子孫の生命との連続において生き続けることが出来る」との生命論をさす。
 現実に執着し死を嫌う中国人を、儒教は上記の論法で死との折り合いをつけさせたというわけだ。


 さて、次は儒教嫌いで有名な福沢諭吉が、実は儒者と主張が似ているとの指摘だ。


 わが講師曰く、

 儒教には絶対神はないが、明治中期までの日本の知識人は、価値相対主義者ではない。なぜなら「道理の客観的実在」を固く信じていたからだ。

 これは福沢諭吉ですら例外ではない。福沢は宗教のうえに道理を置く。道理を信じることで宗教を相対化している。福沢は儒教嫌いで有名だが、その主張は儒教によく似ている。「儒教にもよいところがある」とは意地でも言わなかったが、自身では自分の主張と儒教との相似に気が付いていたと思う。


 そういえば、丸山真男が、「『文明論之概略』」を読む」のなかで、実証主義、経験主義的な面で、福沢諭吉荻生徂徠の親和性を指摘していた。ただ、福沢は儒教について、古代を理想化して現実を変える努力を怠っている「尚古主義」として繰り返し批判している。
もっとも、福沢は儒教を「人間交際の理」を説く学問であり、宗教とはみていなかった。

 元来我が国の宗旨は、神仏両道なりと云う者あれども、神道は未だ宗旨の体を成さず。(神道は)既に仏法の中に籠絡せられて、数百年の間、本色を顕はすを得ず。古来日本に行われて文明の一局を働きたる宗旨は、唯一の仏法あるのみ
  「文明論之概略」(福沢諭吉


 福沢にとって日本で文明史を説く場合、論ずるに値するのは仏教だけということになる。儒教はそもそも宗教の範疇に入っていなかった。