ユダヤ教の複数パロールとは

 以前、プラトンの想起説に言及した。
http://d.hatena.ne.jp/fusen55/20111018/1318946624


 これに関連して、内田樹が「他者と死者」(文春文庫)のなかでレヴィナスによる想起説批判を紹介していた。

レヴィナスいわく、

 一つの思考は二人の人間がいないと明らかにならない。教える者の最初の教えは、教える者の現前それ自体である。それに基づいて表象が到来するのである。


 内田の解説の概略は以下の通り。


 想起説によれば、人間は繰り返し転生する間に、天上の世界も現世のこともすべて知り尽くした。そこで「知ることは思い出すこと」となる。これでは、一人の人間の知に外部は存在しないことになる。
 レヴィナスはこれを批判して、師が弟子にもたらす最重要の教えとは、外部が存在することを教えることである。それは、「師の現前」というそれ自体「外部的」な経験によって担保される。
つまり、師の役割は、有用な知見を教えるのではなく、弟子の「内部」に存在しない知が「外部」に存在することにあるという。

これに関連するモーリス・ブランショの言葉もいかしている。


 同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだ。それは同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ。


 ここでタルムード(ユダヤ教で古来の口伝律法を文書化したもの)が登場する。タルムードは師から弟子への口伝される。つまりつねに対話者が必要とされる。口伝の目的とは何か。

 律法は決して凝固してはならない。つねに「フロー」の状態に維持されなければならない。ユダヤ教史では、同時代に必ず二人の大学者がいて、あらゆる論点について大論争を展開し、聖句の解釈が確定することを妨げている。この大論争の目的は「論争を終わらせないこと」、聖句の解釈に「最終的解決」をもたらさないことにある。
 神の叡智を開示する「記号」の解釈を永遠に開放状態にすること、神の叡智を一義的語義に回収しないことが、ラビたちの責務である。

 内田、前掲書


 ここから「神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた」(「詩篇」62章12節)に進み、「なぜ一度ではなく、二度なのか」との問いへとつなげていく。

 タルムードによれば、神が一度語ったことを人間は二つのパロールのうちに聴きとるからである。複数のパロールの重要性。ユダヤ教では、師を持たない独学者にはタルムードの解釈が許されない。それは、独学者が謎を「複数のパロール」のあわいに棲まわせておく術を学んでいないからである。独学者はおのれの声一つしか知らず、すべてを既知に還元し、聖句に「正解」をあてがおうとする。独学者は呪われなければならない。

 ユダヤ教における最終回答の拒否と独学者否定との連関。これは適用範囲が広い。