吉村昭の戦争観

 吉村昭を読み続けている。「陸奥撃沈」(新潮文庫)から、「史実を歩く」(文春文庫)、「わたしの普段着」(新潮文庫)のエッセイ二冊に進み、本棚には「戦艦武蔵」と「吉村昭が伝えたかったこと」(文藝春秋9月臨時増刊号)が出番を待っている。
 
陸奥爆沈」の冒頭に、吉村は、戦争を郷愁として回顧することへの強い反発を記している。吉村は、執筆にあたり、多くの海軍関係者にインタビューを行い、さらに膨大な文献にあたっている。この過程で、「日本の戦争」に一定の親和を抱いているのではと思っていただけに、この反発はいささか意外であった。そして、頼もしく思った。

 まず、「戦艦オタク」でないことから書き起こす。

 私は、一種の兵器である軍艦そのものに対する興味はなく、その集結地である柱島泊地にも関心はない。戦時中、勤労動員先で休憩時間になると、海軍のことや軍艦のことを熱っぽい口調で話す友人が何人もいたが、私はそんな折にもただの聞き役にすぎず、これといった感慨もおぼえなかった。


 そうした私が、「戦艦武蔵」を書いた理由は、フネのまわりに蝟集した技術者、工員、乗組員などに戦争と人間との奇怪な関係を見、また多くの技術的知識、労力、資材を投入しながら兵器としての機能も発揮せず、1000名以上の乗組員とともに沈没した「武蔵」という構造物に戦争というもののはかなさを感じたからであった。

 私にとって書く対象は、「武蔵」という軍艦でなくともよかった。機関車でもよかったし、鉄橋でも道路でもよかった。たまたま戦争そのものの象徴と思えたものが、一戦艦であったにすぎない。


 戦争は、多くの人命と物資を呑みこみ、土地を荒廃させ人間の精神をもすさませる。失うことのみ多く、得ることのない愚かしい集団殺戮である。それを十分承知しながら、人間は戦争の中に没入し、勝利をねがって相手国の人間を一人でも多く殺そうとつとめる。戦時中少年であった私もその一人だったのだが、私が戦争を書く理由は、自分も含めた人間というものの奇怪さを考えたいからにほかならない。

 そして、敗戦が日本に思想らしきものをもたらす得難い機会を与えたと感じたと吉村は述懐する。しかし…

 だが、私は最近多分に悲観的になっている。得難い機会をあたえられながら、思想らしきもののきざす気配はきわめて薄い。その最大の理由は、とかく過去を美化しがちな人間の本質的な性格にわざわいされているからで、あの戦争も郷愁に似たものとして回顧される傾きが強い。


 私の書く小説も、このような戦争回顧の渦中に巻き込まれている節がある。それは、読者の側の自由であるのだろうが、書く側としては甚だ不本意である。私が戦争について書くことをためらうのは、戦争を美化してとらえる人々の存在がいとわしいからだ。意図したものを逆にとらえられるおそれが、私の気持ちを萎縮させてしまう。

 執筆は昭和54年である。