サンデル白熱教室の演劇性

 佐々木毅の「民主政の不満(上・下)」(マイケル・サンデル勁草書房)についての書評(110508、日経)を紹介す
る。

 著者は自らの立場を共和主義的と規定しているが、本書の議論の多くは、アメリカの公共哲学の歴史をリベラリズムと共和
主義の二つ軸で理解する傾向と大きく異なるものではない。その意味で良いにつけ悪いにつけ、本書の議論はアメリカ的であ
り、そこに本書の面白さと共に限界もあると考えられる。

 自己選択・決定権の擁護に注力することで公共生活の空洞化や進行する深刻な無力感に対するサンデルの危機感は多くの人
々の共有する論点である。実際、原理主義と無力感の広がりとは同じコインの表裏である。問題はこれらの現代的な課題と取
り組む公共哲学の構想が、彼の力説する共和主義的伝統の延長線上でどこまで考えられるかということである。

 彼のいう「多重に位置づけられた自己」という現代における自己のあり方に異論を唱える人は少ないだろうが、こうした自
己のあり方は基本的に共同体の一体感を基盤とした共和主義的伝統と率直に連続するものであろうか。この後者の伝統はむし
原理主義と親和性を持つのではなかろうか。

 サンデルの思想については、もう少し、きちんと読んでからにしたい。ただ日本で話題になったハーバード大での授業スタイルは
、確かに面白いが、なんだか芝居がかっていて、絶賛の声には違和感を感じた。


 サンデルは、賛否にかかわらず質問者のなかから「共演者」に適する学生を選び、選ばれた学生も、たとえ反論であっても、
教授の「共演者」としての役割を嬉々として演じているように見えた。日本でもこれに感化された教員が、全国各地でサンデ
ル式の授業をまねようとしたと思うが、共演者を瞬時に選べない教師、共演能力を欠いた学生の組み合わせでは、悲喜劇にな
るのがオチだろう。