纏足と朱子学

 久々に「朱子学読書会」の報告です。

 子曰く、「民の義を務め、鬼神を敬して之に遠ざかる。知と謂うべし」(「論語」雍也第六)

 講師曰く、孔子には「あの世」はなく「この世」しかない。天国も地獄もない。ただし、日常を超えた存在を否定しているわけでもない。「尊敬するが深入りしない」あたり。この面では、大半の日本人も儒者の末裔か。

 
 ある受講者曰く、「孔子は、神さまなしで正々堂々と現実と勝負している。あっぱれ」。儒教の政治思想としての現代的意味は、このあたりにもありそうだ。


 ただ、加地伸行儒教の「この世」への執着こそが、儒教の宗教性を生んでいると、「儒教とは何か」(加地伸行中公新書)で主張する。

要約すれば、

 中国人は徹底的に現実的、即物的である。この世に徹底的に執着する。「あの世」ではなく、死後も何とかして現世に帰りたいというのが最大願望となる。

 儒教は、人間を精神と肉体にわけ、精神の主宰者(魂)と肉体の主宰者(魄)があり、この二つが一致しているのが「生きている状態」であり、分離すれば「死」となる。
 
 儒教的には、死後も、子孫が先祖を崇拝し、正しく招魂儀礼を行えば、死者もこの世に再生できる。この延長で、自分の生命は、実は父の命であり、さらに遠くのすべての祖先の命でもある。さらに、自分の命は、子の命でもあり、遠いすべての子孫の命でもある。これは、「この世」における一種の不死であり、これを実現可能にするのが「孝」である。
(要約)


 「親孝行」は、単なる倫理ではなく、自分に「この世」での永遠の生命を約束する宗教的行為というわけだ。


 朱子学では、この「生命の連続性」は「気」の連続性として説明される。そして、「気」のバトンタッチをする資格があるのが男子のみとされる。男系の断絶は、その男系の全祖先を殺すことにもつながる一大事だ。
なぜ、男性だけがリレー走者なのか。「男は種で、女は畑である。農作物の種類は、畑でなく、種で決まる」と説明する。うーん。


 陰陽二元論では、「男性=陽気=日なた」であり、男は外で働き、「女性=陰気=家内」で家にいるのが道理となる。
「ちゃんとした女性は外出しない」。これが、纏足(てんそく)を生む。纏足は唐末から宋時代に始まり、朱子学全盛の明清時代には庶民にまで広まった。

 きつく足を縛られ足の発育を止められる纏足で長時間歩けなくなった女性は、家にいるしかない。理想の足の大きさは10センチ。小さな纏足用の靴はセクシーだとされ男性を興奮させたという。ただ儒教国・韓国には、中国から宦官は伝わったが、纏足は普及しなかった。親から譲り受けた体を変形させるのを禁じる儒教の教えが効いたからか。


 「バランスのとれた現実主義」を旨とする儒教だが、こうした逸脱もある。