発見!地面写真家・東松照明

名古屋市美術館で「写真家・東松照明 全仕事」を観る。


名古屋市美に行くのは初めて。タクシーは美術館のある公園の入り口で止まった。初老の運転手さんが「いやあ、すごい人気ですね。私も孫を連れてきたいけど、行列で待つのが嫌でね」。
えっ、東松の写真展で行列が…と驚いたが、これは同じ公園内にある市科学館の人気施設プラネタリウムのことだった。そうだろうな。


さて、東松照明


東松といえば、沖縄、長崎、米軍などをテーマにした社会派的な作品は知っていたが、面白かったのは、砂浜や道路など地面をアップにした写真群だ。なにやらポロック流の抽象表現主義の作品にもみえるし、宇宙空間の星雲にもみえる。普段気にとめない足元にこんな世界があったとは。


実は「地面を写す」試みは、不肖、風船子も時々やっている。ただ、「意外な美」を見つけて喜んでいただけで、あくまで「きれい」の枠内でのお遊びだ。これからは、腰を据えて下を向いて歩き、本格的な「地面写真家」をめざしたい。


地面写真を見た後で、もう一度、東松の社会派と呼ばれる作品群を見直してみると、構図や光の処理がいわゆる告発調の社会派リアリズムからはみ出しているのに気がついた。東松が社会派であることは間違いないが、「社会派の枠を逸脱した社会派」であることがよくわかった。すでに周知のことかも知れないが、私にとっては、予想外の収穫だった。


 吉増剛造の東松論を見つけたので、参考までに紹介します。


東松照明 小論    吉増剛造


東松照明写真集<日本>におさめらている「アスファルト」をはじめてみたときの戦慄を想い出す。アスファルトの細部をうつしながらそれがあたかも宇宙的深淵をのぞくような感情を観るものに与え、遠いかなたに渦巻く大星雲と我々の日常の足元に彫りこまれた釘や鉄くずの類が突如として手を結ぶ。


作者自身、写真集<日本>の後記のなかで、「アスファルトは都会の皮膚ともいえる。路面には機能性を欠いた鉄の死骸が星屑のように散らばっている」と書いているのを今度はじめて眼にしたが、作者の意識にも「鉄の死骸」と「星」の距離が秘かにはかられていたのであった。アンドロメダM31番や一角獣座ガス星雲などの写真を観て宇宙感覚にひたることもできるが、あるいは釘や鉄屑、死骸、その他現実のさまざまの映像を観て現実感覚を確認することもできるが、この「アスファルト」のように一見不可能な距離を一気に踏み渡る例は全く希有であるといわねばならないだろう。


はじめてこれをみたとき、一種の死の皮膚へ吸いこまれてゆくような失踪の感じをもったのだが、おそらく観るものの眼が宙吊りの状態にさそいこまれた、その戦慄であったのだろう。



1968/3「 カメラ毎日」


東松の地面写真を紹介したいのですが、展覧会のチラシに一枚も地面写真がなく、著作権への配慮から紹介は断念します。関心のある向きは、「東松証明、アスファルト」あたりで検索してみてください。かわりにといってはおこがましいですが、拙作の地面写真を載せます。「都内の落ち葉」と「バルセロナの路面」です。バルセロナの路上にある小さな円は、逆さにして埋められたガラス瓶だそうです。カタルニア人は妙なことをやるもんです。

 明日から、下を向いて精進します。