おバカに騙されるおバカ

映画「マイ・バック・ページ」を観る。


 全体としては、製作側の真剣さはわかるが、「戯画」の域を出ていなかった。映画というより、「よくできたテレビドラマ」という印象を受けた。


 土曜の渋谷で4割程度の入り。20代、30代が客の9割ぐらいを占めている。これが、映画評論家・川本三郎の体験記を映画にしたものだということをどれぐらいの観客が知っているのだろう。この時代の体験がない者にとっては、ある程度の予備知識がないとわかりにくい部分が多かったのではないか。

 たとえば、赤瀬川原平の「アカイ、アカイ、アサヒ、アサヒ」のパロディーによるAジャーナル回収事件なども紹介されていたが、前提知識がない人間には「なんのこっちゃ」である。

※このスキャンダルについてはこちらを参照。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/meidai1970/view/20080530


 それでは当時を知っている人間にとってはどうかというと、登場人物が類型的に描かれ過ぎており、かなり現実離れの感がした。特に松山ケンイチ演じる実行犯のリーダーが「仲間内で偉くなりたいだけのおバカ坊や」にしかみえず、これに肩入れして振り回される妻夫木演じる主役のAジャーナル記者も「おバカにだまされるおバカ」に見え、感情移入ができなかった。

 ただ、終幕近く、居酒屋で妻夫木が泣き出す長回しの場面は、見ごたえがあった。取材対象にだまされた自分の非力、企業社会に対する反発、職業的傍観者であったことへの「うしろめたさ」などが徐々に胸にこみあげ、ちいさな居酒屋のカウンターで泣き出してしまう演技力はなかなかのものだった。


 川本三郎は、どこかのインタビューに答え、「普通の文体で普通ではないことを書きたい」と答えていた。川本は、映画評論家という、ともすれば単なる「映画の宣伝屋」になりかねない商売を、追従もせず、屈折も表に出さず、淡々と自己のスタイルを築いてきた。その人物が、映画のように、若い頃、あんなに単純だったとは到底、思えない。原作本を読んでいないので、映画化による単純化がどれほどか判定できないが、この映画に対する川本の映画評を読んでみたい。


 また「記者モノ」映画として、「情報源の秘匿」のほかに、逃亡中の犯罪容疑者との接触の是非や新聞社内部の新聞編集と出版部門の対立などが取り上げられていた。ただここでも記者の描き方が類型的であり、問題提起としては力不足だった。

 60年末代から70年代初頭にかけての「学生運動の時代」は、ドラマ性に富んでいるのだが、実際にドラマ化しようとするとなかなか成功しない。邦画はマジになるほどお笑いになるし、洋モノもベルトリッチの「ドリーマーズ」はひどかった。強いて言えば、若松孝二の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が、本人があの時代の当事者だったからか、異様な迫力があった。

 「ユリイカ」6月号が山下敦弘を特集していた。このなかに、この映画の評論もいろいろあった。この紹介は次回に。