オンナコドモからカミュまで

 前回に続き、この二カ月間の各紙書評まとめ読みのまとめです。「書く」ためのリハビリには最適なので、しばらくこの題材を続けようかと思います。

 それにしても、(この十年で日本は)なぜこれほどまでにもろい社会になってしまったのか。この十年の激変ぶりにはあらためて驚きを覚える。


 親との同居を避け、地域社会とのつながりを断ち、三世代家族を嫌い、生む子供の数も少ない。中高年は離婚の敷居を下げ、若者は結婚を選択しない。


 結果、単身者が急増し、危機に弱い社会ができあがった。

 難しいのは、本書が論証しているように、そのような生き方を私たち自身が望み、それが果たされた結果としての、現在の社会があるということだ。


 佐藤幹夫東京新聞110313

 この関連で、「家のない少年たち」(鈴木大介太田出版)が紹介されていた。「文章に感心。この文章で他の分野にも挑戦してほしい」旨の評があった。太田出版といえば、「1967クロスカウンター」(菅淳一、太田出版)も紹介されていた。この著者と同様、小生も少年時代、この沼田・小林の世界タイトルマッチを興奮して観た記憶がある。地味だがプロの匂いがむんむんするボクサーだった。

「ロング・グッバイのあとで」(瞳みのる集英社)も目を引いた。当時、大人気のタイガーズ(もちろん野球ではなく、GS)のメンバーで、たしか愛称は「ピー」だった。ドラム担当。芸能界引退後に慶応に入り、高校の国語の先生になったところまでは知っていたが…。同時代史として、また人生の大胆な路線変更ストーリーとしても興味あり。


 次は、「<オンナ・コドモ>のジャーナリズム」(林香里、岩波書店)。著者は、デビュー作「マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心」は、報道の世界では「傍流」とされる生活・家庭面の記事に着目した意欲作。今回もその延長にある著作。

 これら(生活・家庭面記事)は、告発、断罪する「正義の論理」ではなく、問題や困難を抱えた当事者に話を聞いて一緒に解決法を模索する「ケアの論理」で書かれる。日本の戦後報道は理念にとらわれるあまり、複雑化する現実に対応しきれなくなっているのではないか。
 多様な状況の中でケアを要請される「オンナ・コドモ」のジャーナリズムの真摯にしてしなやかな振る舞いを学ぶことで、硬直した「オトコ」のジャーナリズムは柔軟さを取り戻せるのではないか考える。


 書評・武田徹 東京新聞110313


「事実を以って語らしめよ」とのジャーナリズムの鉄則が、今日、一番守られているのが、いわゆるニュース面ではなく、フィーチャー面である「家庭面」というわけだ。示唆に富む。


 雨の日曜日。今日は、カミュで締めくくる。

 本書は、カミュが、人生の最初から最後まで、どこにおいてもエトランジェ(異邦人)であったことを証明しようとする試みである。

 カミュは、愚直なまでの誠実さを持った人物だった。馬鹿正直な生き方が、党派的利害しか眼中にない左右両陣営から集中砲火を浴びせられる原因となる。

 レジスタンス、冷戦、アルジェリア戦争と、陣営が二つに分かれて対立する状況が生まれると、犠牲者となることも死刑執行人となることも拒否したカミュは、両陣営から馬鹿にされたばかりか、激しく憎悪された。

 例えばスターリニズムに抗して「反抗的人間」を書き上げると、盟友と信じていたサルトルからは容赦ない反論を浴びせられ、またアルジェリア戦争においては二つの民族が共存できる政治形態を見いだすべきだと正論を述べるや、保守派からは「死刑に値する極左主義者」、共産党からは「仮面を被った新植民地主義者の代表」と罵倒される。


 「カミュ ガリマール新評伝シリーズ世界の傑物6」(ヴィリジル・タナズ、祥伝社) 書評・鹿島茂毎日新聞110403


 おそらく、どんな大勢順応、多数派型人間でも必ず「異邦人」にならざるを得ない局面に遭遇する。問題は、その時に、異邦人であることを回避するか、受け入れるかにある。