「あの日のリビア」断章

 80年代半ばのリビア訪問記の続編です。

 今の中東情勢は、未経験の新事態と古層の復活が、複雑にからまりながら同時並行的に進行しているように思える。いずれにせよ、現代史の行方を大きく左右する事態が現在進行形で動いていることは間違いない。
 リビアは、あまり日本人が行かない土地。日本のテレビ報道ではかなり的まずれな内容も目につく。ともあれ、「あの日のリビア」の感触をなるべく論評を加えずにお伝えします。

 ある日、首都トリポリから車で1時間ほど東に走って、海の見える小高い丘に着いた。そこから海に向って歩くと、とんでもないものが視界に飛び込んできた。巨大な遺跡群だ。高さ10メートルもあろうかという巨大な石柱がコバルトブルーの地中海を背景にしてずらりと並んでいる。古代の競技場もほとんど原形のまま残っている。


 これが、ローマ遺跡レプティスマグナだった。紀元前9世紀ごろ、フェニキア人がこの地を中継港として建設し、2世紀末にはこの地出身のローマ皇帝、セプティミウス・セウェルスが巨大な建造物を建て大都市に変貌させた。1921年に発掘されるまで約1000年間、砂に埋もれていたため、当時の状態が保存されている。


 これが地中海対岸の欧州にあったら、たいへんな観光地になるところだ。しかし、当時、完全な鎖国国家といわれたリビアには、観光ビザなんてしゃれたものはない。遺跡の周囲には、観光客の姿も土産物屋も何もない。われわれ一行以外は人影すらない。

  一行のメンバーに騎馬民族征服王朝説の提唱者として有名な考古学者の江上波夫さんがいた。すでに80歳に近かったと思うが、この遺跡に足を踏み入れた途端に、目の色が変わった。「これは、えらいもんが残っていますね」。足取りが軽くなった江上さんは、遺跡の由来について歩きながら解説してくれた。超一級の考古学者のガイド付きで、観光客ゼロの未公開遺跡を歩くぜいたくな経験だった。残念ながら解説の中身はすっかり忘れてしまったが…。

 トリポリの外交関係施設で、リビアではご法度のお酒をごちそうになった。そのあと、宿舎まで車でもどったが、運転手への指示は「赤信号でも車をとめるな」だった。街中に秘密警察がいて、飲酒がばれると、即逮捕されどこかに連れ去られる危険があるからだという。


 「秘密警察」といっても、その多くは職のない若いアンチャン連中だという。ひまな彼らは、不審な人物を見つけると当局に通報し、小金をもらう。なんだが間の抜けた「秘密警察」だが、つかまったら大変なことになる。信号無視して夜道を突っ走る車内で、身を縮めていた。

 ナツメヤシが茂る市中心部の「九月一日通り」。その名は、カダフィ大佐によるクーデターの日に由来している。目抜き通りだが、ほとんどの商店はシャッターが閉まったままだった。1980年代はじめに個人営業が禁止され、商店が次々と閉店し、わずかに残った国営店だけが細々と営業していた。


 通りにカフェが開いていた。15人も入れば満員となる狭い店だ。外の直射日光は強烈だが、乾いた空気の室内は涼しい。壁には、カダフィ大佐が師と仰いだエジプトのナセル大統領の肖像画がかかっていた。酒は厳禁。数人の男たちが、かき氷にかけるシロップのような甘いジュースを飲んでいる。突然あらわれた見慣れない東洋人を警戒の表情でにらむ。そのうちの一人の青年だけが私を好奇の目で見ている。英語が少し話せるという。



 「君たちの楽しみは?」。間抜けな質問をしてみた。青年は一瞬キョトンとした後、自分の両手を体の正面で握手するように握り合わせ、「フレンドシップ」と一言。つまりは、暇にまかせて、カフェで友人たちとおしゃべりするのが彼の日常的な楽しみなのだ。


 独裁体制下の息苦しさとカフェに流れるのんびりした時間。厳格さと悠長さが混在する奇妙な街だった。


 トリポリでも政府軍と反政府勢力による武力衝突が始まっているようだ。のんびりとジュースを飲んでいた青年は、今ごろどうしているのか。「フレンドシップ」の行方が気になる。

※写真は、古代ローマの巨大遺跡レプティスマグナ