朱子学=陽明学左派

久々に朱子の「論語集注」読書会に顔を出す。

対象個所は、「公治長」。

以下はコウシ(講師)曰く…

 儒教では、「礼」は「道」を具現化するものとして重視されている。ただ礼は、規則ではあるが、それを破っても罰則はない。それが「法」とは違うところ。しかし、礼に違反すれば恥ずかしい思いをする。例えれば、言葉遣いのようなもの。きちんとした場所で、「まじ、やべー」といえば、恥をかく。それが礼における罰則にあたる。

「まじ、やべー」としゃべった本人が恥ずかしいと思わず、しかも、周囲の人間も反発を感じなくなれば、「恥による強制」が働かなくなる。恥だけでは礼の維持は困難ではないか。

朱子学陽明学

  朱子学にとって、「わかる」とは、頭だけでなく、行動全般にまで影響が及ぶことを言う。完全にわかれば、それ以前とは別の人間になるほどの変化をもたらす。つまり、「論語を完全にわかる」とは孔子になることを意味する。自分が孔子に至っていないのであれば、それは「まだわかっていない」ということだ。その意味では、知行合一であり、陽明学とは同じ基盤にたつ。
 
 しかし、陽明学に窮理の発想はなく、ただ実行あるのみ。主観主義に重きを置く陽明学は、朱子学左派といえるかもしれない。逆にいえば、陽明学右派は朱子学と大差がないことになる。
朱子学的合理主義に対し、陽明学的主観主義が対比される。

 朱子学左派=陽明学は、面白い等式だ。

 下問を恥じず。(後輩や目下の者に教えを乞うことを恥じなかった)

 上記の言葉は、欠点もあった衛の大夫、孔文子が、なぜ、死後に「文」という立派な謚(おくりな=死後に贈られる名)をもらえたのか、という問いに対し、孔子が答えたもの。孔子は、身分の違いを超えて知りたいことを知ろうとする態度は君子としての資質だとする。孔子は、秩序重視だが、一方で序列に依存して傲慢にふるまう上位者を厳しく批判する。

 
 鄭の大夫、公孫僑について、孔子は「君子の道、四つ有り」とほめている。四つとは、謙遜、敬虔、恩恵、君子の別などを指す。
 
 しかし、朱子は、これについて、呉氏の解釈を引用して、けちをつけている。

 呉氏、いわく、「欠点をあげて非難する場合は、その対象が善人だからである。
逆に良いところを数えてほめる場合は、その対象が未熟であるから良いところが目立つのである。この場合も、これにあてはまる」と。

 孔子は、常に現実主義でのぼせあがらないことを旨としているが、朱子はさらに人が悪い。せっかく、孔子がほめているにもかかわらず、「ほめるってことは、そいつが悪い奴だからさ」と冷や水をあびせる。

 まったく人が悪い。