富士山、ともあれ別格なり

 抜けるような冬の青空を見ていたら、急に富士山を近くで見たくなり、高速バスに乗る。

 最初、遠慮がちに白い頂を見せていた霊峰だが、御殿場をすぎるとぐんぐん大きくなる。視界を富士に覆われた印象だが、カメラをのぞくと、ファインダーのなかの山の割合は驚くほど低い。見たい対象を実際よりも大きく認識する肉眼のズーム機能によるものか。

 二時間ほどで山中湖に到着。湖畔近くにある日帰り温泉の露天風呂につかると、真正面に冠雪の富士山が迫ってくる。
 裸のおっさんたちに囲まれ、「やっぱり、富士山は特別やね」とおっさん風コメントをつぶやく。

 大衆性、俗悪、紋切り型、ありきたり…富士山の美に対しては、いろいろとケチはつけられてきたが、もとより富士山には責任はない。富士山をテーマにした絵(銭湯の壁絵を含む)、写真、文学、つまり、富士山を題材にした加工品に、その責任がある。ただ、それは富士山の存在感を表現することの難しさの裏返しでもある。


 日本で一番高い山なのに、子分の山々を従えて自らの高さを誇示することもせず、たった一人で孤立している。しかも、裾野から山頂までの全容を四方にさらしている。さらに美しいシンメトリカルなフォルムは、孤高の王者をイメージさせる。そして、噴火の可能性を秘める大火山でもある。

 できすぎ、まじ、やばいでしょ。人間は富士山の存在感に押し込まれ、想像力を働かせる余地がない。表現しようとすると、どうしても紋切り型になる。セザンヌのサント・ヴィクトワールとはまったく違う。「こりゃ、かなわねえな」と素直に負けを認め、見とれるしかないのかもしれない。


 ただ、露天風呂で目の前の富士山とにらめっこしていると、傾斜、積雪など結構、部分的に特徴があり、富士山の左右対称イメージが壊れてきた。

 なんだ、富士山もやっぱり山じゃねえか。
 お湯の中で、ほっとしたような、がっかりしたような、妙な心持になった。

 ともあれ、富士山を堪能した一日だった。

※シルエット富士の写真の左上には小さな三日月が写っています。ちょっと狙って撮ってみたのですが、これもやはり紋切り型でしょうね。