「論考」本文に突入開始

 今日から、ようやく「論理哲学論考」の本文に入って行く。

 最初の一文は、たったの一行。

1.The world is all that is the case.


世界は成立していることがらの総体である。


 訳文は、岩波文庫野矢茂樹訳から。野矢の解説でこの一文の意味をさぐっていく。

 野矢は、「the case」を「成立していることがら」と訳している。専門家的に言うと、この訳語自体でいろいろ議論のあるところだろう。こちらは素人。構わずに先に行く。


以下は野矢解説の要約。

「成立していることがら」とは、「ウィトゲンシュタインは末っ子である」といった、現実世界の事実のことである。
つまり、最初の一文は、「世界は現実の総体である」との意味になる。つまり、ウィトゲンシュタインは、「世界」の語が示すのは、あくまで現実世界であり、想像の世界ではないと設定する。

 それでは、「ウィトゲンシュタインは菓子屋であった」という、現実には起きなかったが可能性としてはあり得た世界はどうなるのか。
 ウィトゲンシュタインは、成立したこと、成立しなかったことを共に含むような世界を、「論理空間」と呼んで、「世界」と区別した。この論理空間の概念は、「論考」では最上級の重要概念である。

 論理空間とは可能性として成立しうることの総体、つまり、世界のあり方の可能性としてわれわれが考えられる限りのすべてである。論理空間の限界こそ、思考の限界にほかならない。

 ちょっと、待った。
 
 例えば、「ウィトゲンシュタインはミジンコだった」というのは、現実の世界に起りえないが、思考することはできる。「可能性の限界」と「思考の限界」は違うのではないか。うーん、疑問は留保して、先に進む。

 以下は要約ではなく、引用。

 「論考」が徹底的に現実に立ちつつ可能性を捉えようとしているという点は強調しておくべきだろう。

 この宇宙の外に無数の他の宇宙があるような仕方で、可能性の世界があっちの方にあるのではないか。そんな意味不明の気分は捨てねばならない。われわれはこの現実世界しか生きていない。その点では人間もミミズも同じである。ミミズもわれわれも、ひとつの世界に生き、このひとつの世界にしか生きていない。しかし、人間は可能性を了解している。

 探究したいのは可能性である。その出発点は現実である。この限られた持ち駒を潔癖に捉えねばならない。「論考」はその潔癖さの内に成立している。

 ここでいう「現実」とはなんだろう。出発点としての「現実」の重要性はよくわかる。しかし、人間にとっての「現実」を固い岩盤のように表象するのは、歴史上、大きな誤謬に陥った前例がたくさんある。

 
 今日は、冒頭のたった一行と付き合っただけだが、今後の付き合いに影響するいくつかの疑問がわいてきた。交際としては、健全なスタートかもしれない。