「論理哲学論考」とじっくり、ぼちぼち

 くたびれた中年会社員にとって、仕事と直接関係ない読書はどうしても、食い散らかしの雑読になりがち。これはこれで楽しいが、1冊とじっくり付き合う読書も捨てがたい。

 今年は、雑読と並行して「じっくり」式にも挑戦してみたい。最初の対象に選んだのは、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」(略称「論考」)。

 おいおい、気は確かか、と自分で突っ込みたくなるが、まあ、学位論文を書くわけではなし、一応短い本だし、素人の能力の範囲内で誤読を楽しむことにする。一昨年、ハイデガーで同じような試みをやろうとして数回で挫折した経験あり。またダメかもしれないが、別にだれに迷惑かけるわけじゃなし、じっくり、ぼちぼち行きましょ。

 テキストは、岩波文庫の「論理哲学論考」(野矢茂樹訳)を使う。20世紀の最重要の哲学書の一つが、わずか700円で買える。しかも、きちんと読むには何年もかかる。こんなお買い得な本はない。

 専門家は、哲学書を読むなら日本語よりも原文の方がわかりやすいという。そりゃ、あんたは若い時から給料もらって毎日、浮世離れした哲学でメシ食っているわけで、原文読むヒマもあろうが、こちとら…
 おっと、愚痴をいっちゃあ、いけねえ。

 一応、中学生時代から学んだ英語なら辞書さえあれば、なんとか(半分以上?)意味をとれるのではないかと思い、原文のドイツ語を英訳した「TRACTATUS LOGICO-PHILOSOPICUS」(ROUTLEDGE & KEGAN PAUL社刊)も参考にしたい。

 実は、日本語訳もこれまで何回か通読したが、消化するどころか、歯形も残せなかったというのが正直なところだ。情ない。そこで、今回は「『論理哲学論考』を理解したいと思うなら、この本を読むのが現時点では最短の道である」と著者自ら豪語している「ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読む」(野矢茂樹ちくま学芸文庫)をガイド役として全面的に信頼して山を登りたい。野矢さん、頼んまっせ。


 第一回は、本文の前に書かれている序文が対象。

 ウィトゲンシュタインは序文で「(本書によって)私は、問題はその本質において最終的に解決されたと考えている」(I believe myself to have found,the final solution of the problems.)と大見えを切っている。問題というのは、哲学問題のこと。この時、ウィトゲンシュタインは29歳。この若造は、「古今東西の哲学の問題は、オレが全部解決したぞ」と宣言したわけである。

 どのように解決したのか。野矢さんの説明ではこうなる。(引用ではなく要約です)


 「論理哲学論考」全体の基本的な問いは、「われわれはどれだけのことを考えられるか」である。
 ウィトゲンシュタインは、同書で「思考の限界」を決めることに成功し、哲学の全問題はこの「思考の限界」を超えた場所にあると考えた。つまり、「最終解決」とは、哲学のすべての問題は思考不可能なものでしかなかったことが明らかになったことを意味した。 

 プラトンデカルトも、無駄な努力をしていたということですかね。この辺を野矢氏の引用で再度、説明してもらう。


 哲学問題は思考不可能であり、それゆえまともな問題ではなかったのだ。「定規とコンパスのみで角の三等分を行なえ」という問題が、その不可能性によって答えられ、問題として成立していないと却下されたように、いまや哲学問題もその解答不能性によって却下される。かくして、哲学問題は、その本質において最終的に解決される。いや、解消されることになる。

だいたいこれが、「論考」の筋書きにほかならない。

 それではウィトゲンシュタインにとって「思考の限界」とは何か。彼は序文でこう言っている。

 本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。…したがって限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。


 Thus the aim of the book is to draw a limit to thought, or rather- not to thought, but to the expression of thoughts. …..It will therefore only be in language that the limit can be drawn, and what lies on the other side of the limit will simply be nonsense.


 彼は、「思考の限界」=「言語の限界」の等式を提示する。すると言葉の外にあるものは、思考の外にあるものでもある。そうか、「論考」の最後の有名な決めゼリフは、ここから出てくるのか。

6.54 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。


What we cannot speak about we must pass over in silence.


 まだ短い序文も読み終わらないが、正月ボケの頭ではこのあたりが限界。じっくり、ぼちぼち…