ホルブルック外交の功罪

 今月14日(現地時間では13日)、リチャード・ホルブルックが亡くなったとのニュースが流れた。彼の肩書は米国アフガニスタンパキスタン担当特別代表だった。12月14日といえば、15年前、ホルブルックが成立に奔走したボスニア和平協定がパリで調印された日だ。ホルブルック死去の報に、日付の因縁を感じた。

 調印の日、会場となったエリゼ宮の周辺にいた。第二次大戦後の最大の内戦、しかも欧州を舞台にした血みどろの内戦に終止符を打つイベントだったが、「終戦」の高揚感がまるでなかった。理由は簡単だ。ほとんどの関係者が、「これで終わった」と信じていなかったからだ。

 和平協定は、ボスニアを一つの国家と規定したうえで、この国家を、「ボスニア連邦」(イスラム教徒とクロアチア人で構成)と「セルビア人共和国」(セルビア人で構成)の二つの「実体」(エンティティ)に分割した。

 米国は、これでボスニアは「コモン・インスティチューション(普通の制度)」に向って歩きだすと声明を出した。

 しかし、一国内に事実上の二つの国家があり、さらにボスニア連邦にはイスラム教徒とクロアチア人のそれぞれを代表する二人の大統領(幹部会員)がいる。セルビア人共和国を入れると、権限の等しい3人の大統領が一国に併存することになる。議会は3勢力それぞれに議席が割り当てられており、選挙をしてもどの勢力も単独過半数を取ることはできない。

 この複雑怪奇な仕組みのどこが、「普通の政府」につながるのか。確かにボスニアでは組織的な戦闘はやんだ。しかし、この和平協定は、「もってせいぜい3年だな」というのが、当時の風船子の見立てだった。


 今日の主役であるホルブルックが、この協定の立役者だった。「和平の貢献者」であるはずだが、欧州での彼の評判は最悪だった。米国の軍事力を背景にして、欧州をばかにしている。態度が横柄。平気で裏切る…などなど。当時の英紙ガーディアンの記事(邦訳)を参考までに引用してみる。


 米オハイオ州デイトンでボスニア和平交渉が合意に至った際、仮調印式に臨もうと、会場のホープホテル「B52の間」に足を踏み入れた欧州の交渉担当者たちは、式のヒナ壇を見て怒りを爆発させた。

 「ダーティー・ディックがまたやったな」。一人が言い放った。欧州における五十年ぶりの戦争の解決を米国に押し付けられるその場に、英仏独露の国旗も席も用意されてなかったからである。

 彼らは、国旗といす、そして一かけらの欧州の誇りを取り戻すべく、ダーティー・ディックこと、米国の交渉責任者のリチャード・ホルブルック国務次官補と、またぞろやり合うため、あたふたと立ち去った。

 デイトンでの二十一日間に及ぶ交渉は、ボスニア和平合意を確保したかもしれないが、米国と連絡グループの欧州諸国との間に、大きな亀裂も生んだ。


 ある時、ロシアのイワノフ外務次官が会議をあわただしく退席し、ワシントンのタルボット米国務副長官に電話してきた。「やっていられない。われわれはこの茶番から引き揚げる。ホルブルックはひどい。われわれを交渉の部屋から締め出し、線引き案を見せることも拒否している」

 ホルブルック氏は特異な人物で、自身のことを伝える報道対策には実に熱心で熟達している。彼がボスニア和平の立役者ともてはやされるのはそのためだ。

  記者発表では、コンピューターが多数設置された「ニンテンドーの間」に話題が集まった。ここでは、爆撃航程のシミュレーションのために開発されたプログラムを利用して、各勢力が手にする支配地の割合をはじき出すことができた。

 「ミロシェビッチセルビア)大統領は、サラエボとゴラジュデを結ぶ回廊を、2マイル幅以上にはさせないと言って譲らなかった。彼を連れてニンテンドーの間でシュミレーションを見せてやったら、ミロシェビッチウイスキーをちびちび飲みながら、5マイル幅に同意した。だから回廊はスコッチ・ロードと呼ばれている」と、ある米当局者は語る。


 欧州の当局者はこう証言する。

「彼らはニンテンドーの間で、イゼトベゴビッチボスニア政府幹部会議長)に、セルビア人勢力の支配地を四五%に削り、ボスニア政府側に五五%を割り当てたことを示し、黒板に『ボスニア勝利』と書いた。 だが、ミロシェビッチ大統領が入室する前に消し忘れてしまったため、ミロシェビッチは怒り、その取り決めを拒否した。米国側はとうとう、クリントン大統領にトゥジュマン(クロアチア大統領)へ電話してもらい、トゥジュマン大統領は、セルビア人勢力側への埋め合わせに、支配地の一部をあきらめざるをえなくなった」


 「ホルブルックは交渉を投げ出しかけた。トゥジュマンは彼と握手しようともせず、ボスニア代表は口もきかなかった。彼らは、ホルブルックが、イゼトベゴビッチ議長を『イジー』、シラジッチ首相を『シリー』、モハメッド・サチルベイ外相を『モー』と呼んであざけったうえ、仲間割れを画策したことを知っていたのだ」


 あれから15年。和平協定は、「戦闘停止の一時しのぎ」と思われていたが、以来、旧ユーゴ地域では組織的な戦闘は起きていない。

 和平協定は、旧ユーゴがめざした「民族混在による共存」をあきらめ、紛争により生じた「民族分住による共存」を追認し、外国駐留軍の軍事圧力で各勢力の不満を抑え込んだ。その体制が、不満、不平は今もくすぶっているが、とりあえず平和を維持している。その意味では、ホルブルック式の「強制された和平」策は功を奏したのかもしれない。

 ただ死ぬ直前まで関与していたアフガン問題では、成果をあげたとは言い難い。ホルブルックの強引な外交は、「米国の絶対的な力」を背景にしなければ成立しない。米国の凋落が、彼の外交力をそいだのかもしれない。


 ホルブルック外交の功罪は、ここ20年の米外交を分析するには最適のテーマだと思う。死去から半月。そろそろ本格的なホルブルック論を読みたいと思う。